大和コロニー
Yamato Colony



日本人のための新天地
 「アメリカに、日本人の村を作ろう!」
 1903年、安孫子久太郎をはじめとする日米勧業社の同志たちは結社以来の夢を現実に移そうとしていた。異国の地で、ひとりでは不安だけれど、隣近所に日本人がいればお互いに助け合って生きていける。商店や宿屋が並ぶ都心部の日本人町ではなく、もっと農村部に、自給自足の村を作って集団移住するのだ――。

 彼らの顔は、若い希望と理想に燃えて輝いていた。それより30年以上前、ドイツ商人シュネルにつれられて渡米した会津若松人たちの無念を、この頃の彼らは知らない。図らずして先駆者若松コロニーの入植者たちと同じ想いを抱いた彼ら5人の若者たち(*1)は、1906年、あらたな日本人殖民地の建設を試みるのである。

 その土地は、カリフォルニア州リヴィングストン(Livingston)。かなり内陸に入った小さな町だが、当時発展途上であった。日米勧業社はここに1280エーカーの土地を買い、「ヤマト・コロニー(大和殖民地)」という名前をつけた(*2)。そして40エーカーごとに区分けし、6年年賦を組んで分譲。金のない日本人入植者たちの現状を汲んだ、良心的な分譲計画だった。

灼熱の荒野
 やると決めた後の同志らの行動はすばやかった。最初の年に4人、翌年には26人が移住をすませ、この土地を耕作可能な農地とするべく日夜労働に励んでいた。

 ただ、暑い。

 そこは草木すら生えない不毛の土地。開墾は非常に難しいと言われている、灼熱の荒野だったのである。
 当時のリヴィングストンの風景描写を紹介しよう。
 「ごくわずかの水分さえ奪い去ってしまう砂漠の風が砂を舞い上げ、強烈な日差しが表土を焦がす。日陰などまるでなく、水もない、下水設備も、学校も、教会もない。生命を生かすための何物もないのである。実際、この地で生活することなど不可能だと考えられていた。」(*3)

 しかも、初期入殖者たちの本業は新聞記者であったり青年実業家であったりしたため、理想と理論だけは豊富に持っているのだが農業経験は皆無に等しい。もともとが、日系移民社会でも知識階層に属するエリートたちの集団なのである。天下国家を論じることを生業として生きてきた頭でっかちな彼らの現実として、金もない。初期の大和コロニーは窮乏を極め、明日の生活をも危ぶむようなありさまだった。


驚くべき繁栄
 しかしその後、少しずつ入殖者を増やしていった大和コロニーはめざましい進化をとげる。

 1908年、大和コロニーで初めての赤ちゃんが鷲津尺魔夫妻のもとに生まれる。コロニー・メンバーたちの祝福を一身に受けたこの女の子は「大和」と命名された。数年の苦労のかいあって不毛の砂は豊かな土に変わり、作物は実をつけ利益をうんだ。1913年には、コロニーの土地の価格は1906年当初の2倍にはね上がっていた(*4)。K. ナカの経営するアーモンド園はモデスト(Modesto)の園芸委員から「カリフォルニア州内で最高」だと称えられ(*5)、ウエダのピーチ・ぶどう園は地域のどの農園よりも優れていると評価された(*6)。


*日系人関連史跡訪問記録*

大和コロニーの現在

大和コロニー
関連サイトへのリンク

 1913年に制定された排日土地法は大和コロニーの面々に衝撃を与えたが、収益の上昇は止まらなかった。人々はこの国に根を下ろす心構えでいた。

大和コロニーの真の目的
 実はこの大和コロニーの建設には、日系移民社会をリードするエリートたちの究極の理想が秘められていた。それは、地元アメリカ人との協調生活。そして彼らに「日本人の本来の姿」を知ってもらうこと。

 コロニー入殖がスタートした当時、カリフォルニアでは日本人排斥運動が過熱しはじめていた。日本からやってくる移民は労働者が圧倒的多くを占め、小金を稼いでは本国に送金する。やがては帰るのだといういわゆる出稼ぎ根性から、彼らは英語もろくに覚えようとせずに日本人同士でつるみ、各地に小さな日本人町を作っては賭博や娼家遊びにふけった。これではアメリカ人が日本人を快く思うはずもない。

 もし日本の地方都市に外国人移民が巣を張り、自分たちのゲットーの中で母国語をわめき散らしながら大きな顔をしていたら、日本人はどう思うか。自国を愛する人ほど彼らを差別し排斥するのではないだろうか。それと同じことが、アメリカで日系移民に対して起こっていたのである。アメリカ人は日本人労働者を「苦力(クーリー)」と呼び蔑んだ。この「苦力」という言葉は、もとは中国語で労働者を指すのだが、既に英語になって“最下層の下品な肉体労働者”を意味していた。アメリカ人が日本人労働者に抱く野卑なイメージはそのまま日系移民全体のイメージとなり、さらに本国の日本人にも及んだ。もはやこれは国際問題であった。

 本当の我々は違うのだ――、心ある日系移民のリーダーたちは叫びたかった。本来の日本人は気高く誇り高く、ワビ・サビを愛する正直な民族なのだ、と。しかし、ただやみくもに叫んでいるだけでは何にもならない。実践して証明するしかない。ここに、大和コロニー建設の真の目的があった。  <続きを読む


註;
(*1)首脳者は安孫子久太郎、植田憲三、皆部梅太郎、峰島儀一野田音三郎の5人。(在米日本人会「在米日本人史」p814.)その他にも大勢の協力者、同志、入殖希望者がいた。
(*2)この名前はかなり迷った末の苦心作であったらしい。そのころ、サンフランシスコなどの都心部では排日の気分が充満しており、まだそこまで及んでいない片田舎のリヴィングストンであっても、あまりに日本らしい名称では地元アメリカ人の反感を買う恐れがあった。ちょうど殖民地をはさんで両側に、「Yam」と「Atwater」という駅があることから、蜂島儀一が「Yam」「At」をつないで「Yamato」とする案をひねり出した。これなら日本的であり、かつ地元の住民にも説明しやすい。「大和殖民地(Yamato Colony)」の名称はこうして決まった。(佐渡「カリフォルニア移民物語」p173.)
(*3)Buddy, Japanese in America, p100.
(*4)Noda, Yamato Colony, p41. さらに「カリフォルニア移民物語」p184によれば、1922年には土地の値段は約20倍に膨れ上がった。
(*5)Japanese in America, p101.
(*6)Yamato Colony, p41.





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