1913年に制定された排日土地法は大和コロニーの面々に衝撃を与えたが、収益の上昇は止まらなかった。人々はこの国に根を下ろす心構えでいた。
大和コロニーの真の目的
実はこの大和コロニーの建設には、日系移民社会をリードするエリートたちの究極の理想が秘められていた。それは、地元アメリカ人との協調生活。そして彼らに「日本人の本来の姿」を知ってもらうこと。
コロニー入殖がスタートした当時、カリフォルニアでは日本人排斥運動が過熱しはじめていた。日本からやってくる移民は労働者が圧倒的多くを占め、小金を稼いでは本国に送金する。やがては帰るのだといういわゆる出稼ぎ根性から、彼らは英語もろくに覚えようとせずに日本人同士でつるみ、各地に小さな日本人町を作っては賭博や娼家遊びにふけった。これではアメリカ人が日本人を快く思うはずもない。
もし日本の地方都市に外国人移民が巣を張り、自分たちのゲットーの中で母国語をわめき散らしながら大きな顔をしていたら、日本人はどう思うか。自国を愛する人ほど彼らを差別し排斥するのではないだろうか。それと同じことが、アメリカで日系移民に対して起こっていたのである。アメリカ人は日本人労働者を「苦力(クーリー)」と呼び蔑んだ。この「苦力」という言葉は、もとは中国語で労働者を指すのだが、既に英語になって“最下層の下品な肉体労働者”を意味していた。アメリカ人が日本人労働者に抱く野卑なイメージはそのまま日系移民全体のイメージとなり、さらに本国の日本人にも及んだ。もはやこれは国際問題であった。
本当の我々は違うのだ――、心ある日系移民のリーダーたちは叫びたかった。本来の日本人は気高く誇り高く、ワビ・サビを愛する正直な民族なのだ、と。しかし、ただやみくもに叫んでいるだけでは何にもならない。実践して証明するしかない。ここに、大和コロニー建設の真の目的があった。 <続きを読む>
註;
(*1)首脳者は安孫子久太郎、植田憲三、皆部梅太郎、峰島儀一、野田音三郎の5人。(在米日本人会「在米日本人史」p814.)その他にも大勢の協力者、同志、入殖希望者がいた。
(*2)この名前はかなり迷った末の苦心作であったらしい。そのころ、サンフランシスコなどの都心部では排日の気分が充満しており、まだそこまで及んでいない片田舎のリヴィングストンであっても、あまりに日本らしい名称では地元アメリカ人の反感を買う恐れがあった。ちょうど殖民地をはさんで両側に、「Yam」と「Atwater」という駅があることから、蜂島儀一が「Yam」「At」をつないで「Yamato」とする案をひねり出した。これなら日本的であり、かつ地元の住民にも説明しやすい。「大和殖民地(Yamato Colony)」の名称はこうして決まった。(佐渡「カリフォルニア移民物語」p173.)
(*3)Buddy, Japanese in America, p100.
(*4)Noda, Yamato Colony, p41. さらに「カリフォルニア移民物語」p184によれば、1922年には土地の値段は約20倍に膨れ上がった。
(*5)Japanese in America, p101.
(*6)Yamato Colony, p41.
|