若松コロニー
Wakamatsu Tea and Silk Colony



戊辰の役と会津藩士
 1868年、日本。戊辰戦争――。新政府軍と旧幕府軍との戦いは凄惨を極めた。幕軍に加担した旧会津の藩士たちは自らの信ずる正義のために戦い、敗北する。「勝てば官軍」という言い回しがこのころ生まれたように、負けた「賊軍」である彼らの将来は暗かった。窮した会津藩士たちの中には、日本に絶望し海外に希望を託す者が少なからず現れたという。

 松平氏23万石の城下町、会津若松から遠くアメリカへと旅立った40人(諸説あり*1)もその逃亡組である。彼らは、ゴールドラッシュで栄えた土地カリフォルニアに未来を見出した。「若松コロニー」(Wakamatsu Tea and Silk Colony)、これが、彼らがその夢につけた名前だった。

新天地アメリカへ
 ジョン・ヘンリー・シュネル(John Henry Schnell)という外国人がここに登場する。会津藩お抱えの武器商人であった彼は、戦争に敗れた藩を見限り、新天地アメリカに日本人の村を建設しようともくろむ。日本の茶と絹を、金鉱発掘の好景気に沸くカリフォルニアで作ればきっと成功する、と考えたのだ。それには人手がいる。彼は、敗戦によって前途を失った武士とその家族たちを説得し、たくさんの茶の実と蚕を携えて船に乗った。それに日本人である彼の妻と娘、子守も加わった。

 1869年、明治維新の翌年である。新政府の正式な許可は取っていない。アメリカで養蚕や茶の栽培をしようとした日本人はあるいは彼らが最初ではなかったかもしれないが、このようにコロニー(植民開拓地)を開いたのは確かに第一号であっただろう。

 5月20日、サンフランシスコに到着した一行は、その北東にある金鉱の町ゴールド・ヒル(Gold Hill)に向かった。名前からも分かるように、ここはちょうどその20年前に初めてカリフォルニアで金が発見された地である。当時は隆盛を極め、一攫千金を夢見る「フォーティーナイナーズ(49ers)」と呼ばれる採掘士たちがどっと押し寄せたのだが、この頃にはそれも下火になりつつあった。

短命に終わった若松コロニー
 シュネルはゴールド・ヒルの農地600エーカーを5千ドルで買い取り、日本人たちを住まわせた。良い土と水に恵まれたこの土地で、茶と桑、また米も栽培するつもりだったようである。旧会津藩のサムライたちは勤勉に働いた。茶の木は育ち、シュネルは1870年のカリフォルニア州フェア(見本市)にこれを出展する計画まで練っていたという。


 翌年シュネルとその妻(日本人)との間に2人目の娘が誕生した。この子が、アメリカ本土で生まれたNisei(二世)第1号ということになる。

 約1年間と少し、このコロニーは持続した。
 そして崩れた。

 原因はよくわからない。日照り、資金不足、あるいは病の流行によるものとも言われている。1871年4月、行き詰まったシュネルは日本で金策をして戻って来る、と言い残しこの地を去り、二度と帰ってこなかった。あとには言葉もわからず、生きる糧もないまま途方にくれた日本人入植者たちだけが残った。


*日系人関連史跡訪問記録*

若松コロニー

おけいの墓



若松コロニー
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40年後の調査
 実は、この若松コロニーの存在はその後40年間以上忘れ去られていたのである。第一次世界大戦が終わり、日本人移民が着々とカリフォルニアに増えつつあった1915年、ゴールド・ヒルの草地でとある墓石が発見される(*2)。そこには日本語でこう書かれていた――「おけいの墓」。そして英語で、「1871年没、19歳、日本人の少女」と。

 日系新聞「日米」の記者、竹田雪城がこの「おけい」の調査に着手した。そんな時期に、わずか19歳で、祖国から遠く離れたこのアメリカで亡くなった日本人がいたのか。それも女性である。これが本当であれば、あるいは彼女はアメリカで初めての日本人女性移民かもしれない。困難な調査の末、記者は彼女が住み込みで働いていた白人家庭を探し当てる。ヴィーアキャンプ(Veerkamp)というこの家の子孫は、おけいを覚えていた。それだけでなく、若松コロニーのことも。ここに、歴史に埋もれていた若松コロニーの存在があきらかになるのである。

若松コロニーの人々、その後
 おけいはシュネル家の子守として彼らについて渡米した。コロニーの経営が失敗に終わったあと、ヴィーアキャンプ家に引き取られ、使用人として働く。勤勉でしとやかなおけいを、家族は愛した。が、1年足らずで彼女は体を崩し、はかなくも亡くなってしまう。

 おけいとともにヴィーアキャンプ家に世話になっていた桜井松之助(サクライ・マツノスケ)が彼女の墓を立てたとされる。彼もまた、若松コロニーの入植者一員だった。松之助はその後30年生きた。

 他に名前がわかっているのは、増水邦(国)之助(マスミズ・クニノスケ)という人物である。彼は後に黒人女性と結婚して3人の子をもうけ、サクラメントで魚屋を経営した。1915年にゴールド・ヒルに近いコロマで亡くなり、その地に墓が残っている。

 その他の入植者たちの行方は知れない。彼らは各地に散り散りになり、やがて忘れ去られていった。(*3)



註;
(*1)実際に何人の日本人がこのコロニーに居住したのか、はっきりしたことはわかっていない。正規の移民でなかったためか、船の搭乗リストにもシュネルとその家族および子守の娘(おけいのことか)しか記載がないのである。40人という数字は一般に言われているもので、根拠は明らかでない。
 どうやらシュネルの計画では、もっと多くの(最終的には400人とも)日本人を入植させるつもりだったらしい。10月にシュネルがAlta California という雑誌に書き送った手紙によると、その時点ですでに「13人の男女が(日本からの)船上でシュネルを待っていた」という(Changing Dreams, p.48)。また1870年のU.S.Census(国勢調査)が示すところによれば、33人の日本人がカリフォルニアにいたとされ、そのうちの22人がゴールド・ヒルにいた可能性がある(p.39)。
 ただし、そのうち存在が確認されている桜井松之助、増水邦之助の2人はCensusに記載されていない。国勢調査の直後に渡米したのかもしれないが、その史料としての信頼性に疑問が生じるのはやむを得ない。
(*2)発見者は国司為太郎
(*3)他にも何人か、若松コロニーの入植者と思しき人物の名前がある。西川友喜柳沢左吉など。この2名については記録が非常に少ない。

参考文献;
  • Sacramento Japanese American Citizens League. Changing Dreams and Treasured Memories: A Story of Japanese Americans in the Sacrament Region. Sacramento; Tom’s Printing. Inc., 2000.
  • The Japanese American Museum. Japanese American History: An A-to-Z Reference From 1868 to the Present. Ed. Brian Niiya. New York; Facts on File, Inc., 1993.
  • Wilson, Robert A., Bill Hosokawa. East to America: A History of the Japanese in the United States. New York; William Morrow and Company, inc., 1980.
  • Uchida, Yoshiko. Samurai of Gold Hill. New York; Charles Scribner’s Sons, 1972.
  • 千野境子著「米国への女性移民第一号 おけい」(産経新聞「日本人の足跡」取材班編「日本人の足跡:世紀を超えた「絆」求めて」第1巻 収録)扶桑社 2001



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