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戊辰の役と会津藩士 |
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翌年シュネルとその妻(日本人)との間に2人目の娘が誕生した。この子が、アメリカ本土で生まれたNisei(二世)第1号ということになる。 約1年間と少し、このコロニーは持続した。 そして崩れた。 原因はよくわからない。日照り、資金不足、あるいは病の流行によるものとも言われている。1871年4月、行き詰まったシュネルは日本で金策をして戻って来る、と言い残しこの地を去り、二度と帰ってこなかった。あとには言葉もわからず、生きる糧もないまま途方にくれた日本人入植者たちだけが残った。 |
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40年後の調査 実は、この若松コロニーの存在はその後40年間以上忘れ去られていたのである。第一次世界大戦が終わり、日本人移民が着々とカリフォルニアに増えつつあった1915年、ゴールド・ヒルの草地でとある墓石が発見される(*2)。そこには日本語でこう書かれていた――「おけいの墓」。そして英語で、「1871年没、19歳、日本人の少女」と。 日系新聞「日米」の記者、竹田雪城がこの「おけい」の調査に着手した。そんな時期に、わずか19歳で、祖国から遠く離れたこのアメリカで亡くなった日本人がいたのか。それも女性である。これが本当であれば、あるいは彼女はアメリカで初めての日本人女性移民かもしれない。困難な調査の末、記者は彼女が住み込みで働いていた白人家庭を探し当てる。ヴィーアキャンプ(Veerkamp)というこの家の子孫は、おけいを覚えていた。それだけでなく、若松コロニーのことも。ここに、歴史に埋もれていた若松コロニーの存在があきらかになるのである。 若松コロニーの人々、その後 おけいはシュネル家の子守として彼らについて渡米した。コロニーの経営が失敗に終わったあと、ヴィーアキャンプ家に引き取られ、使用人として働く。勤勉でしとやかなおけいを、家族は愛した。が、1年足らずで彼女は体を崩し、はかなくも亡くなってしまう。 おけいとともにヴィーアキャンプ家に世話になっていた桜井松之助(サクライ・マツノスケ)が彼女の墓を立てたとされる。彼もまた、若松コロニーの入植者一員だった。松之助はその後30年生きた。 他に名前がわかっているのは、増水邦(国)之助(マスミズ・クニノスケ)という人物である。彼は後に黒人女性と結婚して3人の子をもうけ、サクラメントで魚屋を経営した。1915年にゴールド・ヒルに近いコロマで亡くなり、その地に墓が残っている。 その他の入植者たちの行方は知れない。彼らは各地に散り散りになり、やがて忘れ去られていった。(*3) 註; (*1)実際に何人の日本人がこのコロニーに居住したのか、はっきりしたことはわかっていない。正規の移民でなかったためか、船の搭乗リストにもシュネルとその家族および子守の娘(おけいのことか)しか記載がないのである。40人という数字は一般に言われているもので、根拠は明らかでない。 どうやらシュネルの計画では、もっと多くの(最終的には400人とも)日本人を入植させるつもりだったらしい。10月にシュネルがAlta California という雑誌に書き送った手紙によると、その時点ですでに「13人の男女が(日本からの)船上でシュネルを待っていた」という(Changing Dreams, p.48)。また1870年のU.S.Census(国勢調査)が示すところによれば、33人の日本人がカリフォルニアにいたとされ、そのうちの22人がゴールド・ヒルにいた可能性がある(p.39)。 ただし、そのうち存在が確認されている桜井松之助、増水邦之助の2人はCensusに記載されていない。国勢調査の直後に渡米したのかもしれないが、その史料としての信頼性に疑問が生じるのはやむを得ない。 (*2)発見者は国司為太郎。 (*3)他にも何人か、若松コロニーの入植者と思しき人物の名前がある。西川友喜、柳沢左吉など。この2名については記録が非常に少ない。 参考文献;
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