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アメリカ本土の日系移民


アメリカ本土の日系移民について、時系列的に書いてみました。各項目をクリックしてください。
尚、それぞれの項目の簡単な説明を「概略」として下に記しています。



 (1)ジョン万次郎

 (2)浜田彦蔵

 (3)遣米使節団と咸臨丸

 (4)若松コロニー

 (5)初期移民

 (6)安孫子久太郎

 (7)大和コロニー




 (8)日米紳士協約

 (9)外国人土地法

 (10)写真花嫁

 (11)排日移民法

 (12)全米各地の日系人

 (13)大統領令9066号

 (14)日系人強制収容所




 (15)忠誠登録

 (16)第442連隊

 (17)MIS









(項目は今後増えていく予定です。)



概略


 アメリカと日本との関係は、江戸時代に始まる。鎖国下にあった当時の日本において、難破してハワイに流れ着いた数人の漁師たちを別にすれば、アメリカに移り住むことは不可能だった。

 アメリカ本土に初めて上陸した、として記録に残っている日本人はあの有名なジョン万次郎である。彼もまた漂着民だった。初めてアメリカに長期間住み、アメリカ市民権をとった日本人は浜田彦蔵という人物である。彼が難破の末アメリカ船に救助されたのは1850年、日本にペリーの黒船がやってくる3年前のことだった。

 1860年、日米修好通商条約の批准書を携えた遣米使節団がサンフランシスコ及びニューヨークに到着し、現地の大歓迎を受けた。その随行船、咸臨丸は使節団に先んじてサンフランシスコに入港し、初めて日本からアメリカ合衆国に渡った船として一躍有名になる。

 集団で移住した日本人の記録が最初に歴史に記されるのは、1869年、明治維新の翌年にあたる。戊辰戦争に破れた会津藩士たちがオランダ商人に連れられて渡米し、北カリフォルニアに若松コロニーという養蚕のための定住地を築いた。ただし、事業は1年で暗礁に乗り上げ、日本人たちは置き去りにされてしまう。

 この若松コロニーを先駆けとして、日本からの移民が増え始める。日本政府によって海外移住が正式に認められたのは1884年であるが、米国国勢調査(U.S.Census)によれば、1880年には148人の日本人がアメリカ本土に存在したらしい。ハワイ経由の「転航移民」も多く、1900年の本土在住日本人の数は2万4千人に達している。このあまりに急激な日本人の増加は、必然的にアメリカ市民の反感を買うことになった。

 かれら初期移民の多くは独身男性の出稼ぎ労働者で、農場や鉱山で働いていた。すると、こうした日本人労働者を束ねて各地に斡旋する者が出てくる。そのひとり、安孫子久太郎は現地日本人コミュニティーの中心的存在であった。 1906年、彼はカリフォルニアに日本人の殖民地「大和コロニー」を建設。このコロニーはアメリカ人との理想的な協調関係を築いて栄え、農業に長けている日本人の理想郷とされた。

 1907年、ハワイやメキシコ、カナダからの転航移民が大統領令(Executive Order)によって禁止されると、日本は日米紳士協約(Gentlemen’s Agreement)によってその翌年からアメリカ本土への移民も制限し始める。さらに1910年代、全米各地で外国人土地法(Alien Land Law)が成立し、日本人は土地を所有することができなくなった。




 当時、日本からアメリカに渡るためには、現地に配偶者など家族がいることが必要とされた。このため考え出されたのが「写真花嫁」というシステムである。送られた写真だけを見て結婚相手を決め、夢を抱いて異国の地にやってくる花嫁たちは1920年までに7万人にものぼった。そんな彼女たちの淡い希望は、アメリカでの現実を目の当たりにして泡と消えることになる。1924年、排日移民法(Asian Exclusion Act)成立。日本からアメリカへ合法的に移民する道は完全に絶たれた。日系人に対する排斥、差別の感情は大きく膨らんでいきつつあった。

 そんななか日系移民たちは、差別に耐えつつ自分たちのための安住の地を作り上げていく。「ニホンマチ」と呼ばれる日系コミュニティーが、西海岸の各地に出来ていった。日系人の多い町といえばそれまで北カリフォルニアやシアトルなどが中心であったが、1906年のサンフランシスコ地震をきっかけに多くは南カリフォルニアへ、あるいは全米各地へと移動し、日系社会は大きく広がっていった。

 地道に働いて事業を広げた日系移民たちの中には、成功を収める者も数多くあらわれた。アメリカ経済を支える重要なファクターとして、日系人はようやくその存在を周囲に認めさせはじめていた。そこに、歴史の非道な横槍が入る。

 第二次世界大戦勃発。そして日本の、ハワイ真珠湾攻撃である。



 1941年12月7日、パール・ハーバー奇襲をきっかけに、アメリカ本土における日系人排斥の動きは急激に加速した。1942年2月、ルーズベルト大統領は大統領令9066号において、日系人の強制移住を命じる。全米の日系人たちは家財を売り払うか知人に預けるかして、各地の強制収容所に集められた。戦争終結までの約3年間、彼らはこの有刺鉄線のはりめぐらされた荒野で生活することになる。

 それは戦いだった。アメリカは日本と戦っていた。日本はアメリカと戦っていた。しかし、日系アメリカ人たちは誰と戦っていたのだろうか。

 日本人の両親を持ちアメリカで生まれた二世たちの、国籍はアメリカである。彼らは自己のアイデンティティを引き裂かれるような苦悩にさいなまれた。追い討ちをかけるかのごとく、政府は忠誠登録を課して祖国の選択をせまる。ある者は日本を慕ってアメリカを憎み、またある者はアメリカに忠誠を誓って日系人兵のみの第442連隊を結成し、戦地へ赴いていった。収容所は2つに割れた。そして日系人社会も。

 日本人であり続ける親と、アメリカ人であろうとする子供の世代間闘争は家族を引き裂き、日系コミュニティーのありようを変えた。日系二世たちは、アメリカ市民権を有する(つまりこの地で生まれた)日系人だけの組織、JACLを結成してアメリカ政府に接近し、日系人の権利を主張する運動を繰り広げていく。




 二世の中でも、日本で教育を受けた帰米二世はさらに心中複雑であった。日本語を生かして、軍の情報部MISで活動した二世は「スパイ」とささやかれた。かくして一世と二世、そして帰米二世との間のジェネレーション・ギャップは、この戦争によって歴史の刻印を押されることとなる。

 戦後、日系アメリカ人はその人権を取り戻すために地道な活動を続けていった。世論は厳しく、彼ら自身の中にも、主張し続けることに当惑するものもいた。しかし1988年、戦後40年以上たってようやく、(Civil Liberties Act)により日系人の戦時強制収容に対する政府の公式な謝罪と補償がもたらされ、日系人たちはアメリカ社会に受け入れられたことを実感するのである。

年代・統計等は以下の参考文献に依った。
National Japanese American Historical Society. Due Process: Americans of Japanese Ancestry and the United States Constitution. San Francisco; National Japanese American Historical Society.1995.





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