外国人土地法
Alien Land Law



土着永住を目指して
 日米紳士協約によって日本人出稼ぎ労働者の流入は激減した。このまま日系人社会は先細って行くのかと思われた1910年代、しかし事態は思わぬ方向に転がり出す。紳士協約の抜け穴をくぐりぬけてやってくる写真花嫁たちを迎え、今まで男ばかりだった日系コミュニティーに女性の姿が目立ちはじめたのである。

 出稼ぎの時代は終わった。これからはアメリカに腰を落ち着け、家族をつくって永住・同化を目指そう、そんな思いを抱く人々が増えてくる。皮肉なことに、日本からの移民を制限しようとした紳士協約はむしろ、これまで浮ついた出稼ぎ根性を持ち続けていた日系人たちの横っ面を張り倒し、土着永住の覚悟を決めさせる役割を果たしてしまったようだ。

 そうとなれば、「日本人はアメリカに同化しないから」という理由をもって繰り広げられていた排斥運動も少しは鎮まったのではないか?

 もちろん鎮まらなかった。

 その根底に強い人種差別感情を湛える排日気運は、この地に居つくことを決心した日系人たちにさらなる憎悪をぶつけていくことになる。

農業における成功
 このころのアメリカにおける日系人の土地保有率は、その人口が最も多いカリフォルニアにおいてすら全耕地面積の2%に満たなかった(*1)。にもかかわらず、穀物生産において日系人たちは多くの成功を収め、その利益は土地保有率をはるかに上回るシェアを占めていたという。アメリカの農業の発展に日系人が大きく貢献することができたのは、その持ち前の器用さと独特の工夫による。カリフォルニアのポテト・キングと言われた牛島謹爾は有名だが、いちごやぶどう、トマトに生花といった品種の栽培においても日系人の右に出るものはいなかった。

 しかしこうした日系農民たちの経済的成功が、アメリカ人農民の反発を招いたことは否めない。出稼ぎ労働者を雇っていた時代には彼らの器用さの恩恵に預かっていたアメリカ人農場経営者も、今度は自分の土地を持つ「競争相手」として目の前に現れた日系移民たちに大きな危機感を覚えた。


外国人土地法
 「外国人の土地所有を認めるな」という声が上がりはじめたのは、1900年代後半のことである。全米各地で議論が戦わされ、1910年代に入って西部を中心とする各州の議会が外国人土地法(Alien Land Law)を通過させはじめた。中でも、1913年のカリフォルニア州における法案(州法務長官Ulysses S.Webb の提唱したもので、俗にウェッブ法案と呼ばれる)が全国に与えた影響は大きかった。その要旨は、アメリカ市民権を持たない外国人の土地所有または3年以上の借地を禁止するというもの。これに倣い、カリフォルニア州以外の州でも同様の法が次々と成立する。(→下図表参照)


*日系人関連史跡訪問記録*

外国人土地法
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 この「アメリカ市民権を持たない外国人」とは日本人のみをおおっぴらに指しているものではないし、法案のどこにもJapaneseの文字は見られない。とはいえ、中国人移民の数が減少し、日系移民の経済的活躍が目立ちはじめた当時、これが日本人を狙い打ちしたものであることは誰の目にも明らかだった。外国人土地法が別名「排日土地法」と呼ばれるのはこのためである。

 こうして、日系人が土地を持つためには市民権が必要となった。それでは、帰化すればいいのではないか。アメリカ市民となって堂々と土地を買えばいい――。日系移民たちはもちろんそれを望んだだろう。しかし当時、アメリカに帰化できるのは「ヨーロッパ系の白人とアフリカ生まれの人々、つまり黒人」に限られていた(*2)。せっかく土着永住の決心を固めても、帰化できず、土地も持てないのでは安定した生活が立てられない。自作農をあきらめて白人に雇われる道を選ぶ者、絶望して日本に帰国する者が続出した。

黄禍論
 このとき、日系人たちもただ大人しくうなだれていたわけではない。1908年にカリフォルニアで組織された在米日本人会(Japanese Association of America)はこの非常事態を打開するべく立ち上がった。彼らの取った手段は「教育キャンペーン」(*3)。日系移民たちにアメリカ人の考えを理解させるとともに、アメリカ市民たちにも日系移民の立場をわかってもらうよう働きかけるという正攻法である。同時に大使館にも働きかけるなど必死の努力がなされた。

 1914年、第一次世界大戦がはじまると、世論は戦況に気を取られ排日運動は一瞬勢いを失ったかに見えた。ところが終戦と同時に、戦地から帰ってきた職のない軍人たちが町にあふれ、ここに再び「アメリカ人の職を奪っている外国人移民」の構図が浮かび上がる。

 このころ、「黄禍(Yellow Peril)」なる言葉が流行した(*4)。文字通り、黄色い顔をした東洋人たちが大挙して押し寄せてくるイメージである。日本本国で勢力を強めつつあった軍部への警戒、戦時に日本が中国に押し付けた無茶な要求への反発がそのまま、アメリカ国内の日系人に向けられた。いっそう高まっていく日系人への憎悪の中で、世論の支持を得て票を獲得したい政治家たちは黄禍論を展開し、排日の立場を明確にした公約を打ち出す。1920年代になると、日系人が土地を借りる権利まで否定する動きが起こり、各州で土地法の修正案が可決された。

もともと認めず所有禁止+数か年のリース認可所有禁止+リース禁止(当初の法案の修正等)
ワシントン
アイダホ(1913逆に認可)
テキサス 1891
アリゾナ 1911
カリフォルニア 1913
テキサス 1921
アイダホ 1923
アリゾナ 1913
カリフォルニア 1920
ワシントン 1921 (1923さらに修正:未成年の二世名義による所有も禁止)
ネブラスカ 1921
ニューメキシコ 1921
オレゴン 1923
フロリダ 1926
ワイオミング 1943?
ネバダ
その他
外国人土地法:各州における成立とその後の修正(未完成)

法の抜け穴
 ただこの外国人土地法にも、抜け穴がなかったわけではない。親日派のアメリカ人に頼んで名義だけ貸してもらい、自らは雇われ農夫という体裁をとるものもいたし、ダミー会社を設立して株の半分を市民権取得者に持たせるというやり方もあった。

 最も多く行われたのが、子どもの名義で土地を買うという方法である。アメリカは国籍に関して生地主義を取っているため、アメリカ生まれの日系二世たちは生まれると同時に市民権を獲得している。これを利用して、日系移民たちは幼い我が子に雇われる形で法的な体面を整えた。

 この涙ぐましい奔走は、見方によってはこずるい外国人の違法行為でもあるだろう。当然のことながら、アメリカ人はそう見る。ワシントン州においては、1923年にこの抜け道を埋めるさらに厳しい修正案が採択され、未成年の二世が土地を所有することが禁止された。

 外国人土地法は、その後も長くアメリカの法律として留まることになる。1940年ごろには二世の成長にともなってほとんど死文化していたにもかかわらず、である。カリフォルニア州ではJACLの運動によって1956年の国民投票で撤廃が決まり、その後他州もカリフォルニアに倣って次々と外国人土地法を破棄していった。最後まで残していたのはワシントン州で、1966年の撤廃であった。


註;
(*1)1910年の移民委員会(The Immigration Commission)のレポートによれば、カリフォルニアの全耕地面積約1100万エーカーに対して日本人所有の土地は約1万7千、リース等の借地は約17万8千エーカー。(Wilson and Hosokawa. East to America, p63.)
(*2)1906年にアメリカ連邦議会は帰化法を改正。このとき、日本人は「帰化不能外国人」のリストに入っていなかったのだが、司法省は全国の裁判所に対して日本人の帰化申請を拒否するよう訓令を出した。当時、日系移民の急増が世間で取りざたされはじめており、司法省としては帰化法に明記されていないとはいえ慎重な立場を取りたかったものと思われる。この措置はさらなる反応を呼び、すでに帰化申請の完了した者まで遡って市民権を剥奪するという事態も起きた。(新日本新聞社「米国日系人百年史」p19)
(*3)Ichioka, The Issei, p217.
(*4)East to America, p135.

参考文献:

  • Ichioka, Yuji. The Issei; The World of the First Generation Japanese Immigrants, 1885-1924. New York; The Free Press, 1988.
  • Wilson, Robert. A. and Bill Hosokawa. East to America; A History of the Japanese in the United States. New York; William Morrow and Company, Inc., 1980.
  • 新日本新聞社編「米国日系人百年史:在米日系人発展人士録」新日本新聞社 1961
  • 村上裕三「アメリカに生きた日本人移民:日系一世の光と影」東洋経済新報社 1989
  • 鷲津尺魔「在米日本人史観」羅府新報社 1930




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