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日系人強制収容所
Internment Camps



屈辱の立ち退き
 西海岸に住む日系人は、ただちに住居を立ち退いて所定の仮収容所に集合すべし――。

 大統領令9066号によって、日系人の強制収容は現実のものとなる。彼らに与えられた時間は限られていた。これまで汗水たらして働き、ようやく自分のものとした財産のほぼすべてを数日のうちに処理し、立ち退かなければならない。持っていくことを許された荷物は一人あたりスーツケース2個のみ。家や会社、農場などをどうするのか、家具は、ペットは・・・? 運の良い者は、心あるアメリカ人の友人に管理を任せることができた。しかしほとんどの日系人たちは、持ち物を二束三文で売り払い、売れないものはそのまま置き去るしかなかった。(*1)

 にわか政策で収容所の建設工事が間に合わなかったため、日系人たちはまずAssembly Centers と呼ばれる仮の集合所に収容された。各地に設置されたこの仮収容所は、町の集会場であったりフェアグラウンドであったりしたが、中でも悪名高いのがサンタ・アニタ(Santa Anita)やタンフォラン(Tanforan)の競馬場である。急場しのぎの住まいとして日系人たちに割り当てられたのは、悪臭立ち込める馬舎だった。短期間とはいえ馬小屋に人間を押し込めるというこの処遇は、誇り高い日系人たちのプライドを踏みにじり、彼らを屈辱と絶望の谷に突き落とした。そして、ようやくその仮収容所を後にした彼らが電車に乗せられ、超距離移動の末に降りたところで目にしたものは、荒野の砂嵐の中、連々と立ち並ぶバラックの群れだったのである。

強制収容所の内側
 全米10箇所に設置された収容所と、そのおおよその収容人数は次のとおり。(*2)

Manzanar(California)  10,000人
Tule Lake(California)  16,000人
Poston(Arizona)   20,000人
Gila River(Arizona)  15,000人
Minidoka(Idaho)   10,000人
Heart Mountain(Wyoming) 10,000人
Granada(Colorado)  8,000人
Topaz(Utah)   10,000人
Rohwer(Arkansas)  10,000人
Jerome(Arkansas)  10,000人


 強制収容所――。この呼び名は日系人の間で使われる言葉であり、英語の名称とは少し違う。アメリカ政府の用いた正式な呼称は「War Relocation Center」(戦時転住所)。一時的な転居先、というニュアンスだ。“快適な住居、豊富な食べ物、不自由のない管理環境”と過大広告を打った政府のプロパガンダを、本気で信じていたアメリカ人もいたらしい。しかし、現実はもちろん程遠かった。「収容所」以外のなにものでもないこの施設を、日系人は「Internment Camp」もしくは「Concentration Camp」と呼んだ。

 「日系人たちをアメリカ市民から隔離すること」を第一目的とした収容命令の意図に従って、収容所はほぼすべてが人里離れた荒野や砂漠の中に作られた。物資も管理体制も何もかもが確立していなかったその初期は、ひどい無秩序状態であったという。

*日系人関連史跡訪問記録*

マンザナー強制収容所跡

ツールレイク強制収容所跡

日系人強制収容所
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 板張りの壁の隙間から隣の部屋が丸見えのバラック。机も椅子もない部屋。間仕切りのないトイレ。支給がないのなら自分たちで何とかするしかないと、器用な日系人たちは材木を拾ってきて(あるいは所内の材木置き場から盗んできて)家具を作る。砂漠の砂を持ち込んでくるすきま風に対応するため、石を拾っては隙間につめ、ダンボールを持参してトイレに入る。与えられた最低限の生活を、なんとか豊かにしようという日本人らしい試みが、あちこちに見られた。そんな彼らのささやかな生活を、銃口を内側に向けたガード・タワー(監視塔)が昼夜を問わず監視し、有刺鉄線のフェンスが外界との接触を阻んでいた。

収容所内の自治
 日系人たちの言うとおり、これは「リロケーション・センター」とは名ばかりの「強制収容所」に他ならない。有刺鉄線の外に出ることは禁止され、日本人の血を引くというだけで彼らは、砂漠の中の掘っ立て小屋に押し込められたのである。

 しかし、日本語の「強制収容」という語感が生むイメージとは少々異なる部分もあったようだ。収容所といえども監獄ではない。所内の移動は自由だし、個々の自主的活動はある程度認められていた。人々は収容所内で「就職」し、それぞれに見合った仕事によって報酬を得ることができた。(*3)ひとつの収容所に、およそ1万人以上が暮らすのである。これはすでに、「都市」であった。ありとあらゆる仕事があり、ありとあらゆる施設があった。農場に工場、床屋や雑貨屋などの商店、学校、教会、警察、裁判所、劇場に果ては賭博場まで。無いのは、外へ出て行く自由だけだった。

 そもそも戦時中の、経済的にも困難な時期である。政府としても、日系人収容所にあまりにも多額の費用を費やすわけにはいかない。基本的に、収容所内は日系人たちの自治と自給自足に任せる、というのがアメリカ政府の方針であった。トップの管理職にはもちろんWRA(*4)から派遣された白人が就くのだが、実務はすべて被収容者たちが行なった。所内の食事のために彼らが作った農作物は、がんらい農業に長けた日系人の本領発揮とばかりにすばらしい出来を見せ、収容所外にまで「輸出」されてアメリカ人たちの食卓を賑わした。

 戦争が長期化すれば当然収容所生活も長引く。変化のない毎日に、日系人たちは暇を持て余した。そんな殺伐とした収容所生活を彩ろうと、二世の若者たちを中心に野球やフットボール、合唱などのクラブができた。学校では、外部から教師がやってきて授業を行い、教会は各種のパーティーを主催し、集会所では舞踏会なども実施された。これが政府から強制的に与えられた仮の生活であるという事実を除けば、そしてそこに起因する様々な問題を忘れてしまえたなら、物事はごく平穏に進んでいたともいえる。

割れてゆく日系社会
 しかし、クラブ活動やパーティーなどでは発散できないわだかまりも、ある。押し込められた不満、はけ口を失ったエネルギーの矛先は米政府やWRAに向けられた。いくつかの収容所では管理体制への不満からストライキが頻発し、当局との小競り合いや発砲事件に発展するケースも見られた。(*5)

 ただ往々にして、ストライキにより困るのは白人管理者側ではなく、当の日系人たちなのである。たとえば食堂がストを起こせば、食事にありつけなくなるのは被収容者たちだし、トラック運転手たちのストは物資の輸送を滞らせ、所内は深刻な物不足におちいる。冷静な人々の間からストライキに対する批判があがるのは当然だった。管理者側はそこに目をつけ、反スト派の日系人たちを取り込んでゆく。自分の判断で管理局側につく日系人もいたし、私利私欲のため、あるいは被収容者全体のためを思って両者の折衝に尽力しようとする人々もいた。こうした反スト派の者たちは、しばしば同胞から「inu(犬)」呼ばわりされ、白人や米政府にすりよる裏切り者のレッテルを貼られたという。

 こうして、悲しい構図が生まれていった。日系人同士が、その狭い収容所社会の中で、お互いにいがみ合う。隣のブロックのあいつはイヌだ、あの奥さんの旦那は日本狂信派だ――。むりやりに閉じ込められた集団社会は、その内部で、切ない分裂を決定的にしていった。さらにこのような分裂は、親子・家族の間柄をも引き裂いていったのである。(→一世と二世へ)



註:
(*1)当時、日系人の家々に「Internment Sale」などと書かれたチラシが貼られ、足元を見て買い叩こうとする商売人たちが追いはぎ同然の行為を繰り返していたという。白井「カリフォルニア日系人強制収容所」pp53〜54によれば、米政府は「火事場泥棒式のやからを防ぐために、指定した倉庫に荷物を持ってくれば戦争中保管して、戦後きちんと返すと言って、悪徳商人を取り締った。しかし敵国政府のいうことなどてんで信用しない日本人は、荷物の保管を申請しようなどしなかった」。日系人を転居はさせるものの、財産まで奪うわけではないという建前上、政府も一応の措置はとっていたわけである。このとき保管庫を利用した人びとの荷物は、政府の言葉どおり戦後無事に戻ってきたという。
(*2)Kitano, Japanese Americans. p72.
(*3)白井「カリフォルニア日系人強制収容所」pp75〜76によると、労働報酬額は専門職月19ドル、一般16ドル、アルバイト給12ドル。当時の最低労働賃金よりかなり低い額ではあるが、食住が保証されている収容所内では妥当な線とも言える。(ただ、あくまで賃金はこの3パターンしかなかったため、個人の能力や頑張りが反映されないという不満はあった。)このようにして得た金によって、贅沢はできないながらも、被収容者たちは所内の売店から外部のものを買うことができた。
(*4)WRA = War Relocation Authority、戦時転住局などと訳される。強制収容の段取り、収容所の管理などを行なう事務局。
(*5)1942年12月のマンザナー暴動、1944年5月のツールレイク射殺事件等。数えあげればキリがない。


参考文献:

  • Weglyn, Michi. Years of Infamy: The Untold Story of America’s Concentration Camps. New York; William Morrow and Company, Inc., 1976.
  • 白井昇「カリフォルニア日系人強制収容所」河出書房新社 1981
  • カール米田「マンザナー強制収容所日記」PMC出版 1988




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