初期移民



カリフォルニア・ゴールドラッシュ
 1848年に始まったゴールドラッシュは、カリフォルニアに多くの人と富をもたらした。一攫千金の夢に燃えてこの地に集まってきた人々は国内のアメリカ人だけではない。世界各国、特に太平洋を挟んで西側の中国から流れ込んでくる移民の数は驚異的であった。このころのアメリカ入国は面倒な手続きのいらない簡単なものであり、金鉱労働に従事する中国人の数は1848年当時ですでに数千人、1860年には3万人以上に達していた。(*1)

 ゴールドラッシュとそれに続く大陸横断鉄道の建設に、中国人たちは大きく貢献した。危険かつ過酷な作業の中で事故の犠牲となったものも多く、中国人労働力なしにはアメリカ大陸横断鉄道は完成しえなかったとすら言われる。しかし、それらの事業がひと区切りついたとき、後に残ったのは何万という職のない中国人たちだった。

 新たな職を求めて、彼らは必然的にアメリカ人と競合することになる。厳しい排斥が始まった。1870年代の中国人排斥運動(Anti-Chinese Movement)は熾烈を極め、ついに1882年排華移民法(Chinese Exclusion Act)によって中国人の入国が禁止された。

受け継がれた中国人差別
 このころ、同じアジアのくに日本からの移民はまだほとんど見られない。
 国勢調査によれば、1890年の段階でアメリカ本土に住んでいた日本人は2039人にすぎない。中国人の数はその50倍の10万人以上であった。しかし排華移民法施行後、少しずつ減っていく中国人に代わる安価な労働力として、いつしか日本人がその後を埋める形となっていく。(*2)そして必然的に、中国人が受けた差別と排斥の空気はそのまま後から来た日本人に受け継がれた。

 未知の国アメリカに夢を描いてやってきた日本人たちは、突然の敵意に驚いたことだろう。「Chinks」(中国人の蔑称)と呼ばれ、中国語をしゃべってみろ、と囃したてられたものもいたという。その後次第に彼らが中国人ではなく日本人であるという認識が世間にできてくると、今度は「Japs」という差別語が横行した。

 このころ日本から出る船はカリフォルニア州サンフランシスコやオレゴン州ポートランドといった港に着くものが大半であったため、アメリカ在住日本人のほとんどは西海岸の北側に集中していた。1891年の段階で、日本人人口はサンフランシスコ一都市のみで2千人を数えた。


藩費留学生
 少し時間を戻して、幕末日本人の海外流出を時系列的に見てみよう。1853年、長い鎖国を一夜にして打ち破ったペリー提督の黒船来航以来、尊皇攘夷思想の渦巻く日本においてはある不思議な現象が起こっていた。異人一掃を強く唱える攘夷派の各藩がこぞって留学生を海外に派遣し始めたのである。(*3)明治維新の完全開国以前のことだから、もちろん幕府の目を盗んだ密航だった。特に数多くの留学生を海外に送った薩摩藩からは、のちにカリフォルニアのワイン王と呼ばれた長沢鼎が1965年にイギリスへ向かって出発している。また留学生以外の渡航者についても、わずかだが記録が残っている。(*4)

書生の1880年代
 日系移民のごく初期、すなわち1890年ごろまでは、日本から来る人々のほとんどは「スクールボーイズ」と言われる書生であった。白人家庭に住み込みで下男として働きながら学校に通わせてもらうのである。そうした人々には向学心あふれる良家の子息が多かった。


*日系人関連史跡訪問記録*

サンフランシスコ日本町

サンノゼ日本町

サクラメント・消えた日本町

「ポテト・キング」牛島謹爾の足跡

国府田農場

初期移民
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 明治初期の日本では、福沢諭吉の米国見聞録『西洋事情』(英語では「Go East, Young Man」と訳される)などアメリカの素晴らしさを吹聴する書物が巷にあふれ、新聞にもアメリカ帰りの者の迫力に満ちた体験談が掲載された。(*5)長い鎖国ののち、突如海外に目を向けはじめた日本の若者たちはそうした喧伝に触発されてアメリカに降り立つ。右も左もわからない彼らに最初に手を差し伸べるのは先に渡米した先輩の日本人書生たちであった。青年会、革命党などの小さなグループができ、本国から離れた自由な雰囲気の中、書生らしく声高に国家を論じあう光景が見られた。中でもキリスト教徒の集団であったサンフランシスコ福音会は、新参の日本人に宿や職を世話し、若い活気に満ちてその後も発展を見せていく。(→安孫子久太郎参照)

 この時期、米国の技術をしっかりと身につけて日本に持ち帰り国の発展に貢献した人もいる。(*6)このような学生たちはもちろん一定期間の滞在ののち帰国することが前提であり、アメリカに住みつくものはごくまれだった。この傾向はその後やってきた労働者たちにも共通している。

農民および労働者の1890年代
 当時日本政府が発行したパスポートの、目的国別・職業別内訳が資料として残っている(*7)。これを見ると、それまでは学生(Student)を中心に発行されていたパスポートが、1890年ごろからは漁業・農業関係者(Fishery/Agriculture)にその上位を譲りつつあることがわかる。その理由について元UCLA教授のロバート・ウィルソン氏は、地租改正に伴って地券を与えられ税金が払いきれなくなった日本の小作人がアメリカに活路を見出そうとしたものだ、と説明している。続いて1896年ごろからは、労働者(Laborers)が急増する。多くは日清・日露戦争の兵役を逃れようとした人々、また戦争から帰ってきて日常生活になじめなくなってしまった退役軍人たちである、と同氏は言う。(*8)

 彼らはアメリカでひと財産築いて祖国に凱旋帰国することを夢みていた。「私はアメリカで成功した」という人々の輝かしいサクセス・ストーリーが日本の新聞に載り、日本での日常に行き詰った者たちの心をかきたてた。こうして渡米した出稼ぎ労働者たちは農業や漁業、鉄道、炭鉱等の労働に従事し、小金をためた後やはり帰国していった。

日本人移民のイメージ
 そこに、中国人移民と日本人移民との違いがあった。日本人はアメリカに居つかず、いずれ帰ってしまう。出稼ぎにやってきて安価な労働力を提供し、ドルを稼いでは本国に送金し、そして去っていく。仕事は実直で手先が器用、労働力としては抜群のコスト・パフォーマンスを誇り、アメリカ人労働者は太刀打ちできず職をとられてしまう――。これが排日論者たちの、日本人をこころよく思わない理由のひとつであった。

中国人移民との類似点もある。いかにもアジア的な、博打好きという特徴である。農業や炭鉱労働に携わる日本人集団は過酷な単純労働のうさをはらすために、ギャンブル・ハウスをつくって博打に興じた。そして、男性ばかりの職場に必然的にあらわれる売春宿。このような光景はアメリカにおける日本人全体のイメージを悪くしていった。

註:
(*1)Wilson and Hosokawa. East to America, p37.
(*2)East to America, p37- 排華移民法によって中国人人口が減少の一途をたどり、20年後には一時的に日本人人口が中国人のそれを上回った。
(*3)1864年には肥後藩から横井左平太が渡米し、65年には薩摩藩から森有礼鮫島尚信長沢鼎らがイギリスへ出発し後にアメリカへと渡っている。新島襄がボストンで学んでいたのもこの頃である。1866年海外留学が解禁されるとさらに多くの留学生が海を越えた。アメリカへは福井藩から日下部太郎が、仙台藩からは後の総理大臣高橋是清が派遣されている。
(*4)1861年にワシントン州ポートランドへ渡ったスズキ・キンゾウなる人物、彼はその記録の少なさから未だに謎が多い。1867年に渡米したとされる高橋梅吉については、死後墓が発見されて初めてその存在が明らかになった。そのほか、田中文蔵赤羽根忠右衛門など。1876年に米海軍船に紛れ込んで渡米した大貫八郎はアリゾナで大きな経済的成功を収めた。
(*5)1889年、時事新報は「立志出世田中鶴吉漂流物語」として田中鶴吉のアメリカ体験談を連載。結果的には失敗談であったにもかかわらず、異国で精力的に活動する田中の姿は渡米志向の若者たちの心を刺激した。(米国日語協会一世史編集委員会「一世史」)
(*6)森永製菓の創設者森永太一郎や、日本労働組合運動のパイオニア高野房太郎、現在の理化学研究所創設者高峰譲吉、「武士道」の著者新渡戸稲造などなど。
(*7)The Imperial Statistical Annals- East to America, p35.
(*8)East to America, pp46-48.

参考文献;

  • Takaki, Ronald. Strangers from a Different Shore; A History of Asian Americans. Boston: Little, Brown and Company, 1989.
  • Wilson, Robert. A. and Bill Hosokawa. East to America; A History of the Japanese in the United States. New York: William Morrow and Company, Inc., 1980.
  • 米国日語協会一世史編集委員会編「一世史」PMC出版 1987





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