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日米紳士協約
Gentleman’s Agreement



日本人を排斥せよ
 19世紀末、アメリカへの日本人渡航者が徐々に増えるのと同時に、現地での排日気運も高まりつつあった。日本から渡米する移民の数は、統計上は全移民の1%にも満たないのだが(*1)、それ以上にハワイやメキシコを経由してアメリカ合衆国に入国する転航移民が多いのである。1885年に日本政府がハワイへの契約移民を正式に認めてから、たくさんの労働者が海を渡った。しかし、ハワイでの砂糖きび作りが思ったほどうまくいかず、「本土のほうが実入りのいい仕事があるらしい」と聞きつけた人々が、続々とアメリカへやってくるようになったのだ。

 西部開拓時代に中国人の大量流入を招き、1882年の排華移民法によってそれをストップしたばかりのアメリカ政府は恐れをなした。次は日本人を止めなければ・・・。この動きは、特に移民の多いカリフォルニア州においてひとつの事件を引き起こした。

日本人学童隔離事件
 1893年、サンフランシスコの市教育委員会は驚くべき決議を発表した。市内の公立学校は日本人生徒の入学を拒否するべきだ、というのである。その理由は、「日本人は他の生徒より年齢が高い」から。

 つまりこういうことである。学校に入学する日本人移民は、英語を学ぶ目的であるため実際の年齢よりも低いクラスに入る。当時17歳以下の児童には1人当たり9ドルの補助が政府から下りたのだが、日本人学生を受け入れても17歳以上であることが多いので学校は補助を得られない。また、学齢以上に達した日本人男子がクラスで女子生徒と一緒になることは好ましくない――と、正直なところずいぶんもってまわった理由であった(*2)。この決議は当時の日本領事珍田捨巳らの運動によってなんとか取り消されたが、教育界における日本人排斥の動きはその後も活発になっていく。

 1901年、カリフォルニア州とネバダ州の州議会が「日系移民を制限せよ」との建議書を中央議会に送る。1905年にはサンフランシスコに「日韓人排斥協会(The Japanese and Korean Exclusion League)」が組織され(のち「アジア人排斥協会(The Asiatic Exclusion League)」に改名)、日系移民に注がれる視線はいよいよ厳しさを増していった。


 そして1906年、またしてもサンフランシスコ学務局で以前と同じ決議が下された。日本人生徒を公立小学校から隔離し、中国人学校に編入させるという決定である。今回の理由は、同年起こったサンフランシスコ大地震の影響で学校のスペースが足りなくなってしまったからというものだった。呆れるほどにこじつけの理屈である。だいたい、当時公立学校に通っていた日本人学生の数は全員あわせても100名に満たない(*3)。こんな少数の生徒を排除したところで、どれほどのスペースが確保できるというのか。


*日系人関連史跡訪問記録*

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国際問題に発展
 憤慨した日系移民たちは抗議運動を展開した。日本本国のマスコミにこの事件を知らせ、ついでに各地で頻発している日本人経営レストランへのボイコットや日系人襲撃事件なども報告して世論を煽った。サンフランシスコという西海岸の一都市で起こった教育問題は、こうして日米間の国際問題にまで発展する。

 アメリカ政府は、この日本でまきおこった反響を聞いて初めて、サンフランシスコの学童隔離事件を知ったらしい(*4)。アメリカの政治は地方自治の色彩が強く、今回のことはサンフランシスコ市が独断でやったことなのだが、ことここにいたって、公立学校から日本人を締め出すという行為が日米通商航海条約その他の取り決めに抵触するのではないかとの懸念が政府側を動かした。ときの大統領ルーズベルトがサンフランシスコ市に学童隔離の撤回を命じ、1907年日本人生徒は復学を許される。

 ただし、それには交換条件があった。

転航移民打ち切り
 1907年3月、ルーズベルトは大統領令(Executive Order)を発布、ハワイ・メキシコ・カナダからの日本人の転航移民を禁止すると告げる。サンフランシスコの学童隔離問題は結局のところ排日世論が形をとったものであり、移民制限をするしか解決策がない、と政府は見抜いていたのである。こうして一連の騒動はなんとか治まった。しかし、在米日本人たちにとってはむしろ事態の悪化に他ならない。

 ハワイなどからの転航移民は、鉄道や農園で働く労働者の多くを占める。日系移民の足を掬うようなこの決定に、労働者を束ねる契約請負人たちは憤りをあらわにした。カリフォルニアでは、安孫子久太郎が大使館のみならず本国の東京商工会議所などにも電信を打ち、「このままでは日系社会全体が先細り、経済的進展にも大きな影響を及ぼす」と警告して人々の関心を高めることにやっきになった。またサンフランシスコのJapanese American Industrial Corporationは野田音三郎を代表者に立ててワシントンDCに送り込み、日本大使に働きかけた(*5)。しかし努力むなしく、現実はさらに厳しい展開を見せる。

日米紳士協約
 アメリカにおける日本人移民排斥の動きが日米国家間の問題に直結することを恐れた日本政府は1908年、日米紳士協約(Gentleman’s Agreement)なる取り決めを米政府と結ぶ。これは、一般の観光旅行者や学生など以外の日本人にアメリカ行き旅券を発行しないという日本政府の約束であった。学童隔離事件に始まる在米日本人の、排日世論に対する抗議活動は、ここにいたって最悪の結末をむかえたと言える。

こうしてハワイなどからの転航移民が絶たれ、日本からの渡米が大幅に制限されたことにより、アメリカに在住する日本人の数はほぼ固定された。ただし、この協約には小さからぬ抜け穴も存在した。日本政府が旅券を発行する「例外」として、現在アメリカ在住の家族を持つ者という項目が含まれていたのである(*6)。つまり、親兄弟あるいは妻子であれば呼び寄せ可能というわけだ。ここに、日系移民独特のシステム「写真結婚」が考案され、以後は日本人女性の渡米者が増えていくこととなる。


註;
(*1)Ichihachi, Japanese Immigration, p5の図表より計算すると、1891〜1900年の10年間において、全移民数に対する日本人移民数は0.75%。同様に、1901〜1910年=0.62%、1911〜1920年=0.6%。
(*2)伊藤「北米百年桜」p15.
(*3)Japanese Immigration, p55によれば92名以下、「北米百年桜」p15によれば93名(男65・女28)。また当時のサンフランシスコの公立学校69校中、日本人学生を受け入れていたのは22校であり、一校平均4、5名の計算になる。
 年長の日本人男子が女子生徒と机を並べるという問題についても、その根拠は数字の裏づけを得られない。Wilson and Hosokawa, East to America, p53によると、日本人生徒93名のうち25名はアメリカで生まれたアメリカ市民であり、残る68名に関しては15名が女子、男子21名が15歳以下であった。以上を差し引けば、非難の対象となりうる「年長の日本人男子」の数はわずかに32名であったということになる。
(*4)香川「サンフランシスコにおける日本人学童隔離問題」p229.
(*5)Ichioka, The Issei, p70
(*6)「北米百年桜」p16より、例外的に旅券発行を認める3項として;
 一、在米日本領事発給の在留証明書を持つ再渡航者
 二、在米日本領事発給の証明書を持つ米国在留者の父母、妻及び20歳以下の子女
 三、日本外務省において、とくに承認を与えた定住農夫

参考文献:

  • Ichihachi, Yamato. Japanese Immigration, Its Status in California. 1915. Reprint in San Francisco; R and E Research Associates, Publishers and Distributors of Ethnic Studies, 1970.
  • Ichioka, Yuji. The Issei; The World of the First Generation Japanese Immigrants, 1885-1924. New York; The Free Press, 1988.
  • 伊藤一男「北米百年桜」大日本印刷 1969
  • 香川真理「サンフランシスコにおける日本人学童隔離問題」論創社 1999




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