写真花嫁
Picture Bride


紳士協約の抜け穴
 日米紳士協約によって日本からの移民は大幅に制限された。しかし、アメリカに渡る道がまったく閉ざされたというわけではない。むしろ在米日系人たちは、この協約の抜け穴を利用してコミュニティの存続を図る方法を見出した。

 紳士協約以前に渡米した移民の多くは独身男性であったため、生活が安定する見通しがついて米国永住の覚悟が定まれば、妻を迎えて家族を作りたいという気持ちになる。当時、非白人男性が白人女性と結婚することは非常に難しかった(*1)。また、それ以上にやはり言語や文化背景の壁があり、一生を共にするなら日本人女性をと望む者が多かったのだろう。

 日本政府がアメリカ行きの旅券を発行するわずかな例として、「現在アメリカ在住の家族を持つ者」という項目がある。つまり、アメリカに在住する人間と姻戚関係があればよいわけだ。そこで男性たちは、嫁探しのために日本に一時帰国し、結婚して新妻と共にアメリカに戻ってきた。これならもちろん日米紳士協約に違反しない。ただ、帰国の間は仕事を休まなくてはならないし、2人分の渡航費がかかってしまう。裸一貫で渡米してようやく生活のめどがたったばかりという移民たちである。こんな贅沢な休暇をとる余裕のある者はそう多くない。

 そこで当然思いつくのは、日本古来の風習、「お見合い」制度である。仲人を間に立てて見知らぬもの同志が出会い、結婚する。これを、お見合い写真だけで済ませてしまえば渡航費は1人分でよいわけだ。こうして、写真だけを交換して入籍し、花嫁を呼び寄せる「写真結婚」システムができあがった。

悲喜劇こもごものエピソード
 そのようにして渡米した花嫁たちの正確な数はわからない。写真結婚であったのか、他の方法であったのかの区別は入国記録だけでは判別できないからである。一般的には、紳士協約が成立した1907年から写真結婚が禁止された1920年までに、写真花嫁の数はおよそ2万人であったとも、あるいは7万人に上ったとも言われている。

 カリフォルニア、オレゴン、ワシントン州のアメリカ西海岸の港には、新天地を夢見るうら若き花嫁たちが続々と到着し、これから人生を共にする夫と始めての対面を果たした。そこには、写真結婚ならではのエピソードが残されている。写真結婚の両親を持つ篠崎フジエさんの自伝「サンマテオの詩」から、一部引用してみたい。


 花婿の中には貧しい掃除夫や、フライ・コックなどといわれる初級コックなどもいたが、雇い主の豪邸や素晴らしい新車の前で写真を撮ってもらい、あたかもこれが自分のもののように日本の花嫁候補者へ送ったりするものもいた。さらに自分の若い時の写真やハンサムな友人の写真を代わりに日本に送りつける例などもあったという。
(中略)

*日系人関連史跡訪問記録*

エンジェル・アイランド

写真花嫁
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 カナダとアメリカの国境に近いワシントン州で鉄道敷設労働者として働いていた中村は、十数年も前に豪邸で写した写真を送り、日本から写真花嫁を迎えた。花嫁はシアトル港のスミス・コープに到着したが、出迎えの花婿はもう頭がごま塩になった、中年のみすぼらしい男であった。愕然となった花嫁は「こんな男と生涯暮らすのはいやです」と中村との同行を拒否し(略)乗ってきた船で日本へ戻っていった。
 中村の場合はすぐに嘘がばれてしまったが、嘘を隠し通そうと涙ぐましい努力を続けたご仁もいる。サンマテオ近郊に住むガーデナー(庭師)の加納は、「アメリカの大学を出て当地の銀行に勤めています」と嘘の手紙にそれらしい写真を添えて日本に送った。彼の親戚のものが大学を出た才色兼備の花嫁を送ってよこした。自分にはもったいないような花嫁を見て加納は「実はあれは嘘でした」とも言えず、そのままニセ銀行員をきめ込んでしまった。
 毎朝きちんと背広を着て乗用車に乗って家を出、近所に住む両親のところで仕事着に着替え、トラックに乗りかえてガーデン・ワーク(庭仕事)に出かけた。(略)仕事が終わると、両親宅でシャワーを浴び、また背広に着替えて家へ戻った。しかし、賢い新妻が、そうした夫の不自然なふるまいを見破るのにそう時間はかからなかった。夫の正体を知り驚いたものの、たいへん優しく大事にしてくれる夫を憎む気にはなれなかったのだろう。二人はずっと幸せに暮らしている。(*2)

彼女たちの夢、そして絶望
 アメリカという文明の国に大きな夢を抱いて渡米した写真花嫁たち。会ったこともない夫を頼って、それでも海外へ行きたいという気持ちはどこから来たのだろうか。

 そこには、日本に伝わったアメリカ移民たちの武勇伝が大きく影響している。1910年代の日本は貧しかった。田舎であればあるほど海外出稼ぎ移民が多く出、そして彼らの成功談が大きく膨らんだ形で伝わると、それがまたさらなる渡航希望者を生んだ。貧しい生活はもう嫌だ、という切なる思い。アメリカという先進国への好奇心、憧れ。そして、結婚適齢期を過ぎてしまった女性などは特に、自活能力のないことへの焦りや親の希望、または日本で姑と共に暮らさなくてすむという思いから渡米を決断した者もあったという(*3)。

 しかし、外国生活はそんなに簡単なものではない。夢にあふれて渡米した彼女たちの中には、最初の数週間で手ひどい落胆を味わったものも少なくなかったのではないだろうか。自分の生活をようやく立て始めたばかりの夫たちの多くは、妻を新たな労働力として迎え入れる。働きづくめの夫、彼を助けなければならない労働の毎日、そこにカルチャー・ショックや言語の壁が立ちふさがる。そして彼女たちが渡米した1910年代は、排日の嵐が今まさに荒れ狂い出そうとしている最中であった。

Picture Bride
 相手の姿もわからず、手紙もろくにやりとりしないで写真だけを見て結婚を決める――、このやり方は、キリスト教的価値観の中に生きるアメリカ人の目にどれほど奇異に映ったことだろうか。彼らは写真花嫁を「Picture Bride」と呼び、理解できないアジアの文化として好奇の目を向けた。そんなにしてまで渡米したいのか・・・。嫌悪感を抱く人々は、今までにもまして激しい排日論を展開する。

 こうした声を受けて、アメリカ国内だけでなく日本でも写真結婚に対する論議が起こった。歌人与謝野晶子が1918年に邦字新聞に発表した写真結婚批判の記事や、当時の微妙な国際情勢が日本の知識層を動かし、事は日米間の政治問題にまで発展したのである。

写真結婚の自主的廃止
 そんな折、カリフォルニア州で外国人土地法の修正案が州議会に提出された。1920年のことである。これまでの土地法に輪をかけて、移民に対するしめ上げを厳しくしようとするこの修正案に、日系移民一同は戦々恐々の思いであった。なんとかこの法案の通過を阻止しなければならない。この切実な願いを持って、在米日本人会は非常の手段に出た。排日論者の議員に内交渉するための切り札――写真結婚の自主的廃止である(*4)。

 紳士協約にわずかにあいた抜け穴。写真結婚の道が閉ざされてしまえば、在米日本人が家庭を持つことは難しい。日系移民の間には激しい反対運動が巻き起こった。しかし結局、1920年2月、日本政府は写真花嫁への旅券交付を中止する。そして、カリフォルニア州の外国人土地法修正案は何事もなかったかのように可決され、なんだかだまされたような形で写真結婚制度は幕を閉じた。


註;
(*1)州によっては異人種間の結婚が認められていなかったところもあったらしい。
(*2)篠崎「サンマテオの詩」p.p.33〜34
(*3)Nakano, Japanese American Women. p26.
(*4)明石順三「安孫子氏の印象:写真結婚禁止事件の記憶」『日米新聞』記事自体は筆者未見。岡「安孫子久太郎伝」第三篇5(1980年7月3日)参照

参考文献:

  • Nakano, Mei. Japanese American Women: Three generations 1890-1990. Berkeley; Mina Press Publishing, 1990.
  • 岡省三「安孫子久太郎伝:在米日系人の今日あるを夢見その生涯を捧げた先覚者」『北米毎日新聞』1980年5月8日〜8月30日
  • 新日本新聞社編「米国日系人百年史:在米日系人発展人士録」新日本新聞社 1961
  • 篠崎フジエ「サンマテオの詩:アメリカ新一世の生活手記」家の光出版総合サービス 1991




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