彼女たちの夢、そして絶望
アメリカという文明の国に大きな夢を抱いて渡米した写真花嫁たち。会ったこともない夫を頼って、それでも海外へ行きたいという気持ちはどこから来たのだろうか。
そこには、日本に伝わったアメリカ移民たちの武勇伝が大きく影響している。1910年代の日本は貧しかった。田舎であればあるほど海外出稼ぎ移民が多く出、そして彼らの成功談が大きく膨らんだ形で伝わると、それがまたさらなる渡航希望者を生んだ。貧しい生活はもう嫌だ、という切なる思い。アメリカという先進国への好奇心、憧れ。そして、結婚適齢期を過ぎてしまった女性などは特に、自活能力のないことへの焦りや親の希望、または日本で姑と共に暮らさなくてすむという思いから渡米を決断した者もあったという(*3)。
しかし、外国生活はそんなに簡単なものではない。夢にあふれて渡米した彼女たちの中には、最初の数週間で手ひどい落胆を味わったものも少なくなかったのではないだろうか。自分の生活をようやく立て始めたばかりの夫たちの多くは、妻を新たな労働力として迎え入れる。働きづくめの夫、彼を助けなければならない労働の毎日、そこにカルチャー・ショックや言語の壁が立ちふさがる。そして彼女たちが渡米した1910年代は、排日の嵐が今まさに荒れ狂い出そうとしている最中であった。
Picture Bride
相手の姿もわからず、手紙もろくにやりとりしないで写真だけを見て結婚を決める――、このやり方は、キリスト教的価値観の中に生きるアメリカ人の目にどれほど奇異に映ったことだろうか。彼らは写真花嫁を「Picture Bride」と呼び、理解できないアジアの文化として好奇の目を向けた。そんなにしてまで渡米したいのか・・・。嫌悪感を抱く人々は、今までにもまして激しい排日論を展開する。
こうした声を受けて、アメリカ国内だけでなく日本でも写真結婚に対する論議が起こった。歌人与謝野晶子が1918年に邦字新聞に発表した写真結婚批判の記事や、当時の微妙な国際情勢が日本の知識層を動かし、事は日米間の政治問題にまで発展したのである。
写真結婚の自主的廃止
そんな折、カリフォルニア州で外国人土地法の修正案が州議会に提出された。1920年のことである。これまでの土地法に輪をかけて、移民に対するしめ上げを厳しくしようとするこの修正案に、日系移民一同は戦々恐々の思いであった。なんとかこの法案の通過を阻止しなければならない。この切実な願いを持って、在米日本人会は非常の手段に出た。排日論者の議員に内交渉するための切り札――写真結婚の自主的廃止である(*4)。
紳士協約にわずかにあいた抜け穴。写真結婚の道が閉ざされてしまえば、在米日本人が家庭を持つことは難しい。日系移民の間には激しい反対運動が巻き起こった。しかし結局、1920年2月、日本政府は写真花嫁への旅券交付を中止する。そして、カリフォルニア州の外国人土地法修正案は何事もなかったかのように可決され、なんだかだまされたような形で写真結婚制度は幕を閉じた。
註;
(*1)州によっては異人種間の結婚が認められていなかったところもあったらしい。
(*2)篠崎「サンマテオの詩」p.p.33〜34
(*3)Nakano, Japanese American Women. p26.
(*4)明石順三「安孫子氏の印象:写真結婚禁止事件の記憶」『日米新聞』記事自体は筆者未見。岡「安孫子久太郎伝」第三篇5(1980年7月3日)参照
参考文献:
- Nakano, Mei. Japanese American Women: Three generations 1890-1990. Berkeley; Mina Press Publishing, 1990.
- 岡省三「安孫子久太郎伝:在米日系人の今日あるを夢見その生涯を捧げた先覚者」『北米毎日新聞』1980年5月8日〜8月30日
- 新日本新聞社編「米国日系人百年史:在米日系人発展人士録」新日本新聞社 1961
- 篠崎フジエ「サンマテオの詩:アメリカ新一世の生活手記」家の光出版総合サービス 1991
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