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Military Intelligence Service



442の名声の陰に
 1945年8月。
 戦争は終わった。長く苦しい戦いを生き抜いた兵隊たちは、勝利を誇らしげに掲げて次々と凱旋帰国していった。首都ワシントンDCの大通りには人々が集まり、行進する若武者たちを声援で迎え入れる。その中でも、ひときわ大きく感動的な歓声を浴びせられたのは日系二世兵からなる第442連隊であった。

 おびただしい数の戦傷者を出し、多くの勲章と手柄話に彩られた442のストーリーは人々の心をとらえた。実話をもとにした映画が作られ、たくさんの本が出版された。しかしその脇で、自らの戦歴を語ることもなく静かにその騒ぎを見守っていた、もうひとつの日系兵グループがいたのである。彼らの存在がようやく明らかになったのは戦後25年以上も経った1970年代。国防総省の秘密文書公開がきっかけだった。Military Intelligence Service、陸軍情報部日本語学兵士――。数千人の犠牲を出して一躍有名になった442の陰には、数字にあらわれない部分を担った彼らの暗躍があった。

情報部日本語学校
 日米間の緊張感が高まり、避けられない戦争の予感が両国を覆っていた1941年11月。開戦に備え、敵国日本の情報を収集・解読するチームが必要だという声が上がった。戦うには、まず敵をよく知らなければならない。日本という極東の国は独自の文化を持ち、その言語は複雑で理解しにくい。(*1)この難しい任務につく人材を育成するため、アメリカ国内に日本語学校(MISLS = Military Intelligence Service Language School)をつくろうという計画が持ち上がった。

 第一校はカリフォルニア州サンフランシスコ。スペイン宣教師時代の遺物で陸軍の管轄にあったプレシディオに、日本語学校がひっそりと開校された。ジョン・アイソシゲヤ・キハラら数人が教師に抜擢され、近世兵学書の「長沼読本」を片手に日本語を教えた。白人兵もいたが、やはり生徒の多くは日本語を少しでもかじったことのある日系二世たちだ。全米各地から募集され、説得されてテストを受け、入校してきた彼ら語学生たちの中には、そのままで使い物になるほど日本語に堪能な者は数えるほどしかいなかったという。

 真珠湾が攻撃され、いよいよ戦争が始まると、語学兵の需要は急激に高まった。授業のピッチは上がり、学生たちは寝る間も惜しんで日本語習得に努めなければならなかった。日常会話がわかるだけでは浅い。日本軍の文書解読のためには、兵学的専門用語から候文、方言や手書き文書の金釘流文字にまで精通している必要がある。「日本人よりも日本人らしい」深い知識が彼らに要求されていた。


 学生たちはまた、チームに別れて捕虜の尋問訓練を行なった。白旗をあげて降参してきた日本兵から部署の情報を聞き出す模擬演習である。日本語でなだめすかし、時には脅して情報を得るためには、日本人の心の機微を理解し把握していなければならない。日本の文化風習を踏まえた「降伏説得・尋問マニュアル」が作成された。

 翌年ミネソタに移動したこの学校からは6千名近くの二世語学兵が巣立ち、戦線へと赴くことになる。


*日系人関連史跡訪問記録*

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活躍の場は太平洋
 語学兵たちの配属先は主に太平洋戦線だった。サイパン、グアム、オーストラリア、そしてビルマ、インドにフィリピン。ヨーロッパでイタリア兵やドイツ兵と戦った第442連隊の日系兵たちと異なり、まさに日本兵と顔つき合わせての戦争である。顔が日本人であるため、味方のアメリカ兵からも日本兵と間違えて攻撃される危険があり、語学兵にはそれぞれひとりのボディーガードがついた。なにしろ、高度な日本語解読能力を有した語学兵は稀少で、「替えが効かない」のである。

 彼らは太平洋戦線で、日本軍捕虜から捕獲した日記や郷里からの手紙などを解読し、そこから戦闘情報を読み取った。また、例のマニュアルを活用して、捕虜たちの尋問を行なった。戦争が進み、日本の敗北が濃厚になると、降伏をうながす日本語のビラを撒いたり拡声器で呼びかけたりした。時には日本人のふりをして敵陣に乗り込み、「上部から降伏せよとの指令がおりた」などと言って降参させるトリックまで披露してみせたという。
 終戦後もMISの活動は終わらなかった。語学兵たちのうち優秀な者は占領統治軍GHQに加わり、東京裁判においても通訳として貢献した。

「スパイ」という語感への抵抗
「彼らは100万人もの命を救い、戦争を2年縮めてくれた」  これは、極東軍司令官マッカーサー元帥の補佐役を勤めたウィロビー将軍の言である。(*2)
 これほどまでに称えられたMIS兵士たちの活動が、長い間埋もれていたのはなぜか。機密事項扱いになってしまった彼らの活動記録は、朝鮮戦争中にマッカーサーが罷免されたことで人々の目から遠ざけられたのだが(*3)、それ以上に、兵士たち自身も多くを語ることはなかった。もてはやされる第442連隊の仲間たちを横目に口を閉ざしたMIS兵士たちの心には、日系二世たるがゆえの葛藤があったのである。

 それは、「スパイ」と呼ばれることへの抵抗感だった。語学兵となった日系兵たちには帰米二世が多い。日本語が堪能であり、もちろん日本文化にもどっぷり漬かって、日本を父祖の国として愛してきた人々だ。そんな彼らが日米開戦を機に、アメリカ軍兵士として情報部で日本語の文書を読み、日本兵の尋問をおこなった。「敵国日本人」のレッテルを貼られた親兄弟や妻子をまるで人質同然に強制収容所に残し、自らは日本語を駆使して太平洋戦線で情報活動にあたる。その心中は複雑であったはずだ。実際、収容所内には、息子を語学兵として兵役に出している一世の両親に対して「スパイを送り出した」と誹謗する人たちもいたという。

 叔父や弟が日本に残り、日本兵として従軍しているという境遇の帰米二世たちも多かった。実際に戦場ではち合わせしてしまったという話も聞く。親族と敵同士になり、太平洋戦線で刃を向け合うのは、どんなに辛い経験であったことか。日系アメリカ人の忠誠心を自らが流す血に賭けた第442連隊の悲壮な決意に加えてMIS兵士は、同族日系人からさえ白い眼で見られ、さらに懐かしい故郷の人の顔を敵軍の中に見ながら戦っていたのである。

註;
(*1)太平洋戦争勃発当時、アメリカ国内で日本語を理解できるものは100人もいなかった、という説がある。Harrington, Yankee Samurai. p15.
(*2)”The Nisei saved a million lives and shortened the war by two years.” by Charles Willoughby.
(*3)1951年、マッカーサー元帥は朝鮮戦争処理問題で連合軍最高司令官を解任される。このとき、彼の下の翻訳チームにおいて執筆作業中だった太平洋戦史は没収されて秘密文書指定を受ける。MIS二世語学兵の活動はこの文書中に記録されていた。


参考文献;

  • Harrington, Joseph D. Yankee Samurai: The Secret Role of Nisei in America’s Pacific Victory. Detroit; Harlo Press, 1979.
  • Ichinokuchi, Tad. John Aiso and the M.I.S.: Japanese-American Soldiers in the Military Intelligence Service, World War II. Los Angeles; The Military Intelligence Service Club of Southern California, 1988.
  • The MIS-Northwest Association. Unsung Heroes: The Military Intelligence Service Past-Present-Future. Seattle; The MIS-Northwest Association, 1996.
  • Uyeda, Clifford and Barry Saiki. The Pacific War and Peace: Americans of Japanese Ancestry in Military Intelligence Service 1941-1952. San Francisco; Military Intelligence Service Association of Northern California, 1991.
  • 大谷勲「ジャパン・ボーイ:日系アメリカ人たちの太平洋戦争」角川書店 1983




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