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1860年、江戸幕府から派遣された使節団は、アメリカ軍艦ポーハタン号に乗って品川を発った。日米修好通商条約の批准書をアメリカ政府に渡すためである。幕艦・咸臨丸もそれに随行した。 |
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帰国後福沢諭吉はその自伝の中で、アメリカの手はまったく借りなかった、と言明しているが、後世の研究によってこの発言が日本人の自尊心を高める目的でなされたささやかな、しかし重大な嘘であることが明らかになった。この咸臨丸の航海中に彼ら日本人とアメリカ人との間に生まれた信頼関係が隠されることなく世に伝えられていれば、今とは少し違った国家間感情が生まれていたのかも知れない。 このようにして航海は大成功を遂げた。咸臨丸一行はサンフランシスコの造船所などを視察し、その高い技術に圧倒されながら今後の日本の向上を心に誓う。しかし、悲劇もあった。長い航海のうちに衰弱した水夫たちの死である。航海中蔓延した熱病は多くの水夫を襲い、そのうち3人が亡くなった。彼らの亡骸はふるさと日本の地を見ることなく、サンフランシスコの市街を見下ろす丘に葬られた。 →日系人関連史跡訪問記録 コルマ日本人墓地 参照 |
*日系人関連史跡訪問記録*
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帰国 アメリカの発達した文明を見、その驚きと感動を胸に一行は帰国する。しかし、彼らを迎えた日本の国状は期待とは程遠い冷ややかさだった。 あまりに弱腰な幕府の外交政策に業を煮やした志士たちがいよいよ急進的な攘夷論に傾き、国内は騒然としていた。こんなところに帰ってきた幕府の使者たちがあたたかく迎え入れられるはずもない。アメリカで得てきた知識・情報を口にすることもはばかられる雰囲気の中、しかし、使節の一員であった小栗上野介、幕臣勝海舟、福沢諭吉の3人だけが後の日本の近代化に生かす仕事を残したといわれている(司馬遼太郎『明治という国家』)。 参考文献: 四国新聞連載記事「新瀬戸内海論 島びと20世紀」―第1部 塩飽の海人たち― オンラインで読める。→「島びと20世紀」 |