遣米使節団と咸臨丸



1860年、江戸幕府から派遣された使節団は、アメリカ軍艦ポーハタン号に乗って品川を発った。日米修好通商条約の批准書をアメリカ政府に渡すためである。幕艦・咸臨丸もそれに随行した。

遣米使節団
 ペリー提督率いるアメリカ艦隊が浦賀にやってきた1853年以来、日本は大揺れに揺れていた。開国か、攘夷か――。国内世論が荒れ続ける中、外国の脅威に恐れをなした幕府はなし崩し的な「弱腰外交」を展開する。1854年日米和親条約、そして1858年には日米修好通商条約を締結。いわゆる不平等条約だった。

 日米修好通商条約には、日本からも批准書交換のための使節をアメリカに派遣することが明記されていた。船は米政府が提供する、と言う。誰かがアメリカに行かなければならない。幕府は3人の使節を選び出した。正使新見豊前守正興、副使村垣淡路守範正、そして目付小栗上野介豊後守忠順がこの重要な任務に当たることとなる。彼らが引きつれてきたそれぞれ9人の従者を合わせると、総勢30名の大名行列であった。

 一行はアメリカ軍艦ポーハタン号に乗って太平洋を横断し、サンフランシスコに到着する。その後、船を乗り替えた彼らはワシントンD.C.で大統領ブキャナンに会って批准書を渡し、ニューヨークではアメリカ国民の熱烈な歓迎を受けた。奇妙な服を着た東洋人の珍しさに、人々は非常な好奇心と友好を示したという。さらに彼らは大西洋を旅し、アフリカ・インド洋方面から地球をぐるりと一周して日本に戻ってくることになる。

咸臨丸
 この遣米使節団を護衛するために随行したのが幕府軍艦、咸臨丸である。提督は軍艦奉行・木村摂津守喜毅、艦長格として幕臣の勝海舟(微妙な立場だが、艦長そのものではなく教授方取り扱いといった位置だったらしい)、そのほか福沢諭吉、ジョン万次郎らが乗り込んだ。

 当初は日本人のみの力で太平洋を横断しようと考えていたが、近海で難破した米国籍船の船長ブルック大尉らも乗せることになり、これが結果的に幸いした。遠洋航海の技術が未熟だった日本人水夫たちは実のところほとんど使い物にならず、便乗したブルック以下アメリカ人水夫たちの協力を得てなんとか航海を成し遂げたのである。


帰国後福沢諭吉はその自伝の中で、アメリカの手はまったく借りなかった、と言明しているが、後世の研究によってこの発言が日本人の自尊心を高める目的でなされたささやかな、しかし重大な嘘であることが明らかになった。この咸臨丸の航海中に彼ら日本人とアメリカ人との間に生まれた信頼関係が隠されることなく世に伝えられていれば、今とは少し違った国家間感情が生まれていたのかも知れない。

このようにして航海は大成功を遂げた。咸臨丸一行はサンフランシスコの造船所などを視察し、その高い技術に圧倒されながら今後の日本の向上を心に誓う。しかし、悲劇もあった。長い航海のうちに衰弱した水夫たちの死である。航海中蔓延した熱病は多くの水夫を襲い、そのうち3人が亡くなった。彼らの亡骸はふるさと日本の地を見ることなく、サンフランシスコの市街を見下ろす丘に葬られた。
→日系人関連史跡訪問記録 コルマ日本人墓地 参照


*日系人関連史跡訪問記録*

咸臨丸入港百年記念碑

コルマ日本人墓地



遣米使節団・咸臨丸
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帰国
 アメリカの発達した文明を見、その驚きと感動を胸に一行は帰国する。しかし、彼らを迎えた日本の国状は期待とは程遠い冷ややかさだった。

 あまりに弱腰な幕府の外交政策に業を煮やした志士たちがいよいよ急進的な攘夷論に傾き、国内は騒然としていた。こんなところに帰ってきた幕府の使者たちがあたたかく迎え入れられるはずもない。アメリカで得てきた知識・情報を口にすることもはばかられる雰囲気の中、しかし、使節の一員であった小栗上野介、幕臣勝海舟、福沢諭吉の3人だけが後の日本の近代化に生かす仕事を残したといわれている(司馬遼太郎『明治という国家』)。

参考文献:
四国新聞連載記事「新瀬戸内海論 島びと20世紀」―第1部 塩飽の海人たち―
オンラインで読める。→「島びと20世紀」


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