日系人関連史跡訪問記録
サンフランシスコ日本町




 サンフランシスコの日本町、ジャパンタウンといえばガイドブックにも載っている観光名所です。しかし、そのジャパンタウンの位置がこの100年と少しの間に3回も変っていることは意外と知られていません。

チャイナタウンの一角に
 サンフランシスコ在住の日本人の数が徐々に増え始めていた1880年ごろ、街にはまだ「日本人町」と呼べるような場所はありませんでした。日本から渡ってくる人々は苦学生が多く、各地に散らばって働きながら勉強をしている状況だったからです。そんな彼らが学業を終え、ビジネスに手を付け出した1890年代、アンティーク・ショップや乾物屋などの日系商店がチャイナタウンの一角にぽつぽつと立ち始めました。この頃の様子を知るための史料は、残念ながら多くは残されていません。1906年のサンフランシスコ大震災によってあらかた消失してしまったためです。

 どうやら、しかし、この初期日本町(らしきもの)はあまり評判の良い場所ではなかったようです。地震をきっかけに、賭博場や売春宿の多いこの地を見限った日本人たちは、より港に近い地域に目をつけました。サウスパーク・エリアです。

South Park
現在のサウスパーク北側、日系商店が軒を連ねて
いた通り。今はもう、当時の面影は残っていない。
(2004年2月撮影)

サウスパーク・エリア
 South Parkという名のこの公園は、サンフランシスコで最も古い公園とされています。今でこそただの小さな「周辺住民の憩いの場」にすぎませんが、1856年の竣工当時は、ヨーロッパやアジア各地からやってくる人々がひしめきあう非常にインターナショナルなエリアだったようです。

 日本人たちが新たな日本町の拠点としてここを選んだ1910年ごろには、その中で過酷な商業競争に負けた一部の商店ビルがいくつかサウスパーク・エリアに空き家となっていました。彼らはそれらを買い取ってビジネスを始めます。

 近江屋商店、井木旅館、防長旅館、キノクニヤ(日本文字表記不明)旅館などが、新たに到着した日本人移民たちを受け入れる最初の玄関となりました。数ブロック先にあるピア34と36が日本からの船が到着する港、という地の利も働き、ホテル業は大いに繁盛します。中でも近江屋商店は、日本式の風呂を売り物に、日本人移民の生活の中心的存在にまで成長したそうです。

 ここから夢を抱いてアメリカ各地へと「巣立って」行く客たちにとって、この日本町は異国の地における第二のふるさとのような場所であったのでしょう。こうした人と人とのつながりが、日系コミュニティ、本当の意味での日本町を形成していくことになるのです。

その他のエリア
 もちろん、日系の商店はサウスパーク・エリアだけに集まっていたわけではありません。地震の後、Dupont St.(現Grant Av.)など、現在ファイナンシャル・ディストリクトと呼ばれる地域には、住友銀行や横浜銀行など日系の銀行が軒を連ねました。また、Sutter、 Post、Buchanan St.といった今のジャパンセンターがある辺りにも多くの日系商店が点在していました。1930年代のベイブリッジ建設によりピア34・36が閉鎖されると、サウスパーク・エリアの日系商店は移転を余儀なくされ、代わりにこのエリアが日系コミュニティの中心になりました。1906年にPost St.にオープンし人々に鮮魚を提供した魚喜商店は、戦後同じ通り沿いに数メートルだけ移動して、2004年の今もなお営業を続けています。

 しかし、このような例はむしろ珍しいでしょう。1929年の大恐慌、第2次世界大戦時の強制収容による立ち退きは、せっかく育っていた日本町に大きな打撃を与えました。心ある非日系の友人により守られたわずかな商店を除いて、日本町の大部分の店舗は他人に奪われてしまったのです。あまりにひどい排日のムードにいづらくなり、住み慣れたカリフォルニアを捨てて東へ移住する者もいました。

ジャパンセンターの建設
 それでも少しづつ、日系人たちは日本町に戻っていきます。戦前の規模には及ばないながら、日本語補習校や教会などに人々が集まり、日系コミュニティが復活していきました。

 1960年代になると、サンフランシスコ市のRedevelopment Agencyの意向により、現在のジャパンタウン・エリアをより日本らしく観光地化する計画が持ち上がります。1968年、ジャパンセンターが建設され、日本からサンフランシスコ市に贈られた五重塔は広場の中心にすえられて日米親善を宣伝しました。

Japantown
現在のジャパンタウン。以前の姿はこちら↓
Japanese American History Archives日米資料館のHPへ

 美しく生まれ変わったジャパンタウンは、いまや日本好きのアメリカ人や観光客にとって格好のオリエンタル観光スポットとなっています。日本食レストランや書店、土産物屋などが集まったジャパンセンター。そこを歩く人々の半分以上は、非日系人なのではないでしょうか。

ジャパンタウンの今
 「ここはもう日本町じゃないんだよ」――ジャパンセンターの中の、あるお店のオーナーがぼやいていました。「気骨を持ってやってる、ジャパニーズのオーナーなんて俺くらいのもんだ。みんなコリアンやら、チャイニーズだよ、ここいらの店は」

 ここ何年かのうちに、ジャパンタウンのあちらこちらに韓国語の文字が見え始めました。最近、トルコ人の友達をジャパンタウンに連れて行ったとき、彼女が韓国系の店に入って「So Japanes-y!」と喜んでいたのが心に残っています。日本文化と韓国文化の区別がつく非アジア人は少ないのでしょう。少しづつ、でも急速に、ジャパンタウンはその様相を変化させつつあります。これも歴史の流れなのでしょうか。

参考文献:
  • Okazaki, Suzie Kobuchi. Nihonmachi: A Story of San Francisco’s Japantown. SKO Studios, 1985.
    ジャパンタウンの発展に尽力した父を持つ著者が、その歴史を克明につづる。手作り風の冊子だが、ジャパンタウンそのものに注目した資料が少ない中で非常に貴重。
  • San Francisco Japantown Guide--History of Japantown
    ジャパンタウンのオフィシャル・ページ。




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