排日移民法
The Japanese Exclusion Act of 1924




「日米紳士協約」の壁
 1921年、アメリカの議会は新たな移民関連法案を通過させた。増え続ける移民の数に、制限を加えるためである。これは一国家として当然必要な政策であり、移民大国アメリカといえども例外ではない。独立後100年のあいだ移民は無制限に受け入れられ、むしろ国家建設において大いに求められる存在として歓迎されてきた。しかしもう建国期は終わったのだ。いつまでも、来るもの拒まずのブラックホール国家ではいられない。

 移民割当法(The Quota Immigration Act)と呼ばれるこの法案は、現アメリカ在住者の出身国別人口をわり出し、それぞれその3%の範囲内で毎年の移民数を決めるというものだった(*1)。一見公平で、穏当に思われるかもしれない。しかしこの決定によって、比較的まだ国内居住者の少なかったアジア系などの有色人種は移住を制限され、すでに大勢を占めるヨーロッパ系白人はさらに優遇されるという図式が成立した。巧妙なレトリックによって武装された人種差別が、アメリカ議会を動かしていた。

 ただし、この1921年の移民法は日本人移民に対してのみ効力を持たなかった。当時日本とアメリカとの間で結ばれていた日米紳士協約のためである。1908年から続くこの協約は、もともと日本が自主的に譲歩して移住者数を制限したものだったのだが、その後各国からの移民を取り巻く情勢が当時以上に厳しくなっていく中で、むしろ日系移民の全面的排斥に抵抗する砦のような形になっていた。しかもその取り決めには抜け穴が多く、排日論者たち(*2)に言わせればこの協約は写真結婚による日本人女性の流入を招いた最大の要因であった。

 だいたい、「紳士協約」(gentlemen’s agreement)というものはいわば口頭で交わされた非公式の約束ごとをさす名称である。公文書に残っているわけでもなければ、法的拘束力があるわけでもない。こんな協約を結んでしまったことはアメリカ政府の失政であり、一刻も早く破棄すべきだ。そもそもこの協約の内容を、詳しく見た者はいるのか――。こうした不満が排日派の議員たちから湧き上がり、その声は日増しに大きくなっていった。

「埴原書簡」のもたらした不幸な顛末
 1924年の春。時の国務長官ヒューズ(Hughes)は、駐米日本大使に口頭でこんな依頼をした。


「日米紳士協約が秘密協定だという声が上がっている。よろしければ私への手紙の中で、簡潔かつ明確な形で、権威をもって、紳士協約を要約していただけないだろうか」(*3)
 国際情勢の変化(*4)の中で、日米の感情的摩擦が微妙な局面を迎えているおりでもあった。アメリカにおける悪意的な対日感情を憂いていた駐米大使埴原正直(ハニハラ・マサナオ)は、言われたとおりヒューズ長官宛てに手紙を書いた。長官は翌日それを上院に送った。


排日移民法
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 不幸なことにこの「埴原レター」が、結果的に、両院議会のムードを一気に排日へと駆り立てた最大の要因となってしまうのである。埴原大使が故意に反論したり、煽り立てたりしようとしたわけではない。むしろ彼は、なんとかして両国の仲を取り持とうと心を砕き、紳士協約の真意を説明した。問題は彼の手紙の中の、ある不用意な言葉だった。

「ごく率直に、また親愛の情をもって私は繰り返し申し上げたわけですが、それは、この(帰化権のない移民を排除するという)法案がもたらすであろう重大な結果を心配しているからなのです。・・・」(*5)

 この「重大な結果」(grave consequences)という2つの単語に、排日派の議員たちは色めきたった。これは、脅迫ではないか。この法案を通せばゆゆしき事態が起こるぞと、日本大使が我々を脅している。自由の国アメリカの立法が、こんな恐喝に屈してなるものか。
 かくして論点は移民制限の方法云々から、アメリカの国としての沽券にすりかえられた。驚きあわてた埴原大使は、脅迫の意図などなかったと必死で弁明したが、事態はもとに戻らなかった。1924年5月、法案は可決され、大統領がサインすることによって(*6)法律として成立した。

日系移民、途絶える
 公式には移民割当法という名前であるこの法文中には、とくに日本人に対する制限などといった表現はいっさい見られない。にもかかわらずこの法律が一般に「排日移民法」と呼ばれるのは、これが日本人排除を狙い撃ちにしたものであることが誰の目にも明らかだったからである。「帰化権のない外国人」は移民として受け入れない、という文章にすべてがこめられていた。

 当時、アメリカへの帰化権は「自由な白人と黒人」に限られていた。だからこの法案の目的とするものはつまり、黒人以外の有色人種の完全排斥なのである。そして中国人移民がすでに禁止されている現況において、「帰化できない外国人」という表現が暗に指し示すのは、要は日本人だった。

 これらの外国人が帰化権を得るまでには、第二次世界大戦後もしばらく待たなければならない。1943年に、大戦での同盟国中国へのジェスチャーとして中国人に、46年にはフィリピン人に帰化の権利が与えられた。日本人および韓国人は最も遅い1952年。1924年にどたばたのすえ成立した排日移民法は、こうして28年間にわたり日本人移民を完全にシャットアウトすることになるのである。




註;
(*1)Daniels, The Politics of Prejudice, p95 より、もとの案は5%であったところが3%と修正された。またChuman, The Bamboo People, p95 より、この「現アメリカ在住者の出身国別人口」は1910年の国勢調査にもとづく数字であり、これが実は曲者だったらしい。その年およびその前年はヨーロッパ諸国から大量の白人が渡ってきた年で、「茶色」のスパニッシュや「黄色」のアジア人がまだ少数であった時代。必然的に有色人種が排除されるという、数のトリックがそこにあった。
(*2)排日を主張するグループの筆頭はマクラッチー(McClatchy)という人物であった。彼はカリフォルニア合同移民委員会(California Joint Immigration Committee)の委員長で、日本人移民の問題点や排斥すべき理由を陳情書にまとめて国務省や上院議会に提出した。排日移民法が成立した背景には、こうした排日論者の活動が大きく影響していたと言われる。(→陳情書の要旨等は、日系移民史群像マクラッチーの項参照)
(*3)The Politics of Prejudice, p100.
(*4)日露戦争の結果、ロシアから割譲された満州を日本が盛んに開発し始めると、中国への経済的進出をもくろむアメリカとの間に緊張感が生まれた。満州鉄道を能率的に経営して利益を上げる日本の成功を見てアメリカは焦燥感を抱き、これが対日感情を悪化させる直接の原因となった。(The Bamboo People, p92)
(*5)The Politics of Prejudice, p100.
(*6)The Bamboo People, p101 より、時の大統領クーリッジ(Coolidge)は「この法案は特に日本人に対する排斥をはらんでいるものであり、それについて遺憾に思う」という声明を出した。またクーリッジは、日米紳士協約について大統領が日本政府と話し合いを持つことを議会に提案し、検討のための時間が必要だと説いたが議会には受け入れられなかった。


参考文献:

  • Chuman, Frank F. The Bamboo People: The Law and Japanese-Americans. Del Mar, California; Publisher’s Inc, 1976.
  • Daniels, Roger. The Politics of Prejudice: The Anti-Japanese Movement on California and the Struggle for Japanese Exclusion. Berkeley; University of California Press, 1962.
  • 鷲津尺魔「在米日本人史観」羅府新報社 1930




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