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サイバラ、セイトウ・・・西原清東(1861-1939) 高岡郡出間村(現 土佐市出間)出身。郷士。坂本竜馬の遠縁とされる。維新後、板垣退助の立志社で英語を学び、自由民権運動に参加する。弁護士、国会議員、同志社大学総長などを務めるが、すべてを投げ捨てて1902年に渡英、ついで渡米。熱心なキリスト教徒でもあったため神学校に入り、1年後にテキサス州ヒューストンに移る。彼はここテキサスで、稲作を中心とした日本人コロニーを建設するという構想を持っていた。ヒューストン近郊の町ウェブスター(Webster)に304エーカーの農場を購入した西原は、日本の家族や親類縁者に手紙を書いてアメリカに呼び寄せ、みんなで本格的な米作りを始める。 西原の稲作プロジェクトは大きな成功を収めた。1909年には合わせて900エーカー以上の土地を所有し、西原は「テキサスのライス・キング」の名を欲しいままにする。彼の栽培する日本米はアメリカの在来種に比べはるかに高品質であった。アメリカに住む西原に、日本政府から「文部大臣(”Minister of Education”--[Encyclopedia of JAH])に」という招聘もあったようだが、それを断って彼は農場経営に没頭し、綿花やオレンジの栽培にまで手を広げる。 ところが、成功はいつまでも続かなかった。第一次世界大戦による不況で米の価格が下落し、さらに1924年の排日移民法によって日本人労働者の供給がストップされると、西原とその家族はテキサスの農場を閉じてブラジルに移住する。ここでまた同じような稲作コロニーの建設をイチから始めようとしたのだ。今度の計画はテキサスほどにはうまく行かず、その後しばらくして日本に帰国。次は台湾でのトマト栽培を目論んだ。 この人は終始ベンチャー・プロジェクトに挑戦しつづけていたい、少年のようなひとだったのかもしれない。残念なことにトマト・ベンチャーのプランは実現せず、1932年病魔に侵された西原は残り少ない余生を愛着のあるテキサスで過ごすことに決め、再び渡米。2年後、息子キヨアキが引き継いでいた西原農場で亡くなる。78歳であった。農場はキヨアキが1964年まで経営し、現在その跡地にはNASAのスペースセンターが立っている。(毛利さんや若田さんが訓練を行い、宇宙に飛び立っていったセンターですね。彼らはその史実を知っていたのだろうか?) 参考文献:East to Americaほか |
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サクライ、マツノスケ・・・桜井松之助(1834-1901) 会津藩出身。若松コロニーの一員として1869年渡米。コロニー解散後、おけいとともにヴィーアキャンプ家に雇われ、67歳で亡くなるまで同家で作男として働いた。生涯結婚はしなかった。 おけいの墓は、彼女の死後十数年を経た後に桜井がサンフランシスコまで出かけて墓石用の大理石を買い求め、日本文字を書き示して石工に彫らせたとされる。1901年に桜井はヴィーアキャンプ家の小屋で死亡し、亡骸はコロマの公営墓地に埋葬された。 →若松コロニーおよび若松コロニー跡地参照 参考文献:「一世史」ほか |
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サトウ、モモタロウ・・・佐藤百太郎(要詳細調査) ボストンのポリテクニック工芸学校に留学後、1875年に一時帰国して森村豊、新井領一郎などに渡米を勧める。日米貿易の先駆者であり、日本領事をも務める。森村と共に「日の出商会」を設立して雑貨商を営み、新井とは「佐藤新井組」を共同経営して生糸貿易に着手。1880年日本に帰国。 参考文献: 「紐育日本人史」 |
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サメジマ、ナオノブ・・・鮫島尚信(要調査) 薩摩藩士。藩費留学生として1865年、森有礼、長沢鼎らとともにイギリスへ渡る。1867年ロンドン万国博覧会でトマス・レーク・ハリスに出会い同行して渡米。 |
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シマ、ジョージ・・・George Shima →牛島謹爾 |
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ジョン・マンジロウ・・・ジョン万次郎(1827-1898) →ジョン万次郎参照 |
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シュネル、エドワード・・・Eduard Schnell(生没年不明) ジョン・ヘンリー・シュネルの弟。日本で兄とともに武器を扱う商会を営んでいた。初期の研究においてはこのエドワードと兄ヘンリーを混同して記述している史料が多い。 |
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シュネル、ジョン・ヘンリー・・・John Henry Schnell(生没年不明) オランダ人、プロシア(ドイツ)人、あるいはトルコ人と諸説あり。各地で様々に自称した記録が残っているのだが、南ドイツ(当時はプロイセン)HesseのDarmstadt生まれというのが実際のところらしい。弟エドワードとともに横浜で武器弾薬を扱う商売をしていたとき、会津藩に召抱えられる。会津藩の軍事顧問として藩内で顔が利き、平松武兵衛という和名を藩主松平容保に与えられた。「松平」では恐れ多いのでひっくり返して平松としたようだ。長岡藩家老の河井継之助と懇意であり、河井に当時最高の武器であったガトリング砲を売った人物でもある(これは弟のエドワードだったとする説も)。眉目秀麗、会津藩士の娘お葉を妻として3人の娘をもうけ、会津若松市内に現在も残る屋敷をかまえた。1869年、戊辰戦争に破れた会津藩の人々を率いて渡米。若松コロニー(Wakamatsu Tea and Silk Colony)を建設、ここに日本人の楽園的殖民地を築こうとしたが挫折。金策の為に日本へ帰国すると言い残して去り、コロニーへは戻らなかった。 シュネルは日本人をだまして置き去りにした悪人だったのだろうか? 戊辰戦争に際して両軍に武器の斡旋をした「死の商人」として、西のトマス・グラバーと並び称される「東のシュネル」であるが、真相はいまや遠い過去の中である。しかし少なくとも彼の会津藩に対する愛情は、コロニーの名に若松を冠したことや、若松の名産品である絹と茶をアメリカに持ち込もうとしたことからも汲み取れる。当時シュネルがカリフォルニア・アルタ紙に語ったところによれば、いつかはこの若松コロニーに、敗者として日本で苦悩の日々を送る会津藩主松平容保を迎え入れようとすら、彼は考えていたようだ。 参考文献: East to America、「日本人の足跡1」ほか →若松コロニー参照 |
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スズキ、キンゾウ・・・(生没年不明) 謎の多いパイオニア。彼について、ポートランドのある商人が語ったという未刊行の資料がある。1861年にこの商人が貿易のために函館に渡ったとき、スズキに出会いそのままポートランドに連れ帰ってきた。生い立ちや渡米の動機などについてはまったく何もわかっていないが、江戸時代に苗字があるということは武士階級で、おそらくは倒幕側に属していたのだろう、と元UCLA教授のロバート・ウィルソン氏は推測する(East to America, p23)。渡米後スズキはハイスクールで学び、数学や歴史が得意であったという。やがて就職したスズキは仕事でサンフランシスコを訪れ、日本の使節団(岩倉具視使節団のことか?)に出会った。驚くべきことに、その中に何人か知り合いの顔を見出したスズキはその集団に加わりロンドンに渡った。 参考文献:East to America |
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ストージ、アーネスト・A・・・Ernest Adolphus Sturge(1856-1934) オハイオ州クリーブランド出身。ペンシルヴァニア大学で医学博士(M.D.)および哲学博士(Ph.D.)を取得後、1880年、長老教会外国伝道局医療宣教師としてタイに派遣される。そこでコレラに犯され、1885年に病気療養をかねてサンフランシスコに帰任した。ここで彼は日本人伝道に取り組むことになる。1886年彼は基督教青年会(YMCA)を設立して祈祷会や日曜学校・日曜礼拝、聖書研究会などを開いて精力的に活動する。1992年まで、その総理を務めた。各地に日本人教会を建て、他宗派とも協力して排日運動に抵抗。「太平洋岸の日本人の父」と称えられ、誰からも慕われた。 ストージの偉大さは、単に日本人移民に対してキリスト教の道を説くだけではなく、彼らと生活を共にしその私財をなげうって指導に努めたところにある。安孫子久太郎、副島八郎など彼の影響を直接・間接的に受けた日本人移民は数え切れない。 1924年に大正天皇より勲五等を授章。コルマ日本人墓地に大きな墓が建立された。 参考文献: 「アメリカ日本人移民とキリスト教社会」 |
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スネル、ジョン・ヘンリー →シュネル |
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ソエジマ、ハチロウ・・・副島八郎(1861-1928) 佐賀市松原町出身。1890年渡米。ヘイト青年会のストージ博士のもとで英語を学んだあと、サンタ・ローザの長沢鼎に雇われて農業を学ぶ。1894年、サンフランシスコに戻って新聞「新世界」の主筆となる。日本人慈恵会の創立メンバーでもある。1926年、排日移民法に反旗を翻してメキシコに移住するも、2年後に金目当ての元使用人に銃殺される。 参考文献:「在米日本人人名辞典」ほか |