ナガサワ、カナエ・・・長沢鼎(1852-1934)
 元薩摩藩士。藩の名門校、開成所で英語を学ぶ。1865年、藩費留学生として森有礼鮫島尚信らとともに若干13歳でイギリスに渡る。鎖国中のことであり、幕府に対して彼らは脱藩・密航して国外に出たという筋書きになっていた。「長沢鼎」という名前はこのとき藩主から与えられた変名であり、本名は実は「磯永彦助」である。結果としてその後帰国しなかった彼は、生涯この変名を名乗り続けることになった。
 スコットランドの中学校に入学して英語を学んで2年が経ったころの長沢に、劇的な出会いが訪れた。宗教家トマス・レーク・ハリス。カリスマ的指導力を持つアメリカ人である。このころ本国日本ではいよいよ倒幕の気分が沸騰し、その対応に忙しい薩摩藩は留学生の生活を一時的に見放していた。1867年、長沢ら留学生有志はハリスに同行して渡米。ニューヨーク州ブロクトンにある教団コロニーに居住し、ワイン醸造などの労働に従事しながらハリスの教えに従った自給自足の集団生活を送ることになる。
 1868年、明治維新の報に森らは帰国したが、ひとり長沢のみはハリスの希望により教団に残された。その後7年経って教団コロニーはカリフォルニア州サンタ・ローザ(Santa Rosa)近郊に移り住む。ハリスはこの土地をファウンテン・グローブと名づけてワイナリーを営んだ。この地で長沢はワイン作りに没頭する。ファウンテン・グローブ・ワイナリーは数多くの賞を受賞して成功を収め、その名は徐々に有名になっていった。
 長沢が40歳のとき、教祖ハリスはニューヨークに戻り、ワイナリーは長沢の手に託される。彼は地元白人たちとの交流を深めて「プリンス」「バロン(男爵)」などと呼ばれ、園芸家ルーサー・バーバンクなど高名な名士とも親しく付き合っていたという。一方で日本領事や日系銀行ともつながりを持ち、日本人労働者を積極的に雇用するなど、日系社会に貢献することも忘れなかった。排日運動、禁酒法といった逆風に耐えながら「ワイン・キング長沢」の名をとどろかせ、最も成功した在米日本人のうちのひとりとして1934年、長沢は82年の数奇な生涯を閉じた。
 参考文献:Japanese American Journey、「日本人の足跡 2」、門田明「カリフォルニアの士魂」
 →「グレープ・キング」長沢鼎の足跡(訪問記録)参照

ナカハマ、マンジロウ・・・中浜万次郎
 →ジョン万次郎

ニイジマ、ジョウ・・・新島襄(1843-1890)
 江戸出身。安中藩士の子として生まれる。1865年、22歳で渡米。密航でマサチューセッツへ渡り、ボストンのアンドバー神学校(Andover Theological Seminary)に学ぶ。航海中世話になった船主夫妻の庇護のもと、9年間にわたって勉学に励み、敬虔なキリスト教信者となる。駐米少弁務使森有礼の助けを借りて日本の旅券を発行してもらい(密航脱国であったため身分証明になる旅券がなかった)、ワシントンで岩倉具視使節団にも遭遇している。1874年日本に帰国、同志社大学を設立し教育者として活躍した。
 参考文献: Japanese Americans(Spickard)、「アメリカが見つかりましたか」

ニシカワ、トモキ・・・西川友喜(生没年不明)
 旧会津藩士。若松コロニーの一員として1869年渡米。コロニーで唯一、正真正銘の武士階級であったことが確定している人物だが、渡米後の足取りはまったく不明。1870年7月の国勢調査(U.S.Census)に Nishijawa Tomke の名前で記載がある。
 →若松コロニー参照
 参考文献:「日本人の足跡 1」ほか

ニシヤマ、ハジメ・・・西山元(要詳細調査)
 岡山県出身。細川家の血を引くとされる。1890年渡米、ソルトレイクシティーの学校で二年間学んだ後サンフランシスコに入り、安孫子久太郎らとともに福音会で活動した。1898年、ワイオミング州のロック・スプリングス(Rock Springs)炭鉱へ赴きユナイテッド・パシフィック鉄道と契約、日本人労働者を供給する。また、ユタ州マンタイ炭鉱にも日本人労働者を引き入れた。このようにして一時は500人ほどの労働者たちを監督し、「鉄道に於ける田中忠七と炭鉱に於ける西山元は、山中部の先覚者として功労者であった」(在米日本人史)。1903年、安孫子の日米勧業社に役員として入社。この西山の参加によって、それまで農園への労働者供給が中心であった日米勧業社の業務は山中部の鉄道や炭鉱にまで広がった。
 参考文献:「在米日本人史」「在米日本人労働者の歴史」「カリフォルニア移民物語」

ニトベ、イナゾウ・・・新渡戸稲造(1862-1933)
 盛岡出身、あまりにも有名な学者。1884年、私費留学生として渡米。メリーランド州やペンシルヴァニア州の大学等で学び、アメリカ人の妻を娶った。クエーカー派キリスト教に触れ、日本人初のクエーカー教徒となる。何度目かのアメリカ滞在中に名著「武士道」を出版。(最近、映画「ラスト・サムライ」の影響もあってか日本で復刻され人気が出ているようだ。サンフランシスコの紀伊国屋書店でも対訳本などと一緒に平積みコーナーを設けているのを目にした。2004年4月)ヨーロッパ諸国への留学も経験した後、京都帝国大学教授、東京帝国大学教授を歴任。
 参考文献:花井等「国際人 新渡戸稲造:武士道とキリスト教」広池学園出版部 1994.

ノグチ、ヒデヨ・・・野口英世(1876-1928)
 有名すぎるので詳しい経歴は省く。1900年、私費留学生として渡米、アメリカ人女性と結婚。1904年からニューヨークにあるロックフェラー研究所に一等助手として勤務、黄熱病などの研究に励む。1915年一時帰国後、南アメリカやアフリカなど世界各地を飛び回って研究を続けるが、1928年ガーナで自身が黄熱病にかかり死亡。その遺体はロックフェラー財団の費用で厳重にパックされ、アメリカに送られた。ニューヨーク郊外のウッドローン墓地(Woodlawn Cemetery)に墓がある。
 参考文献:野本一平「亜米利加日系埼人伝」彌生書房1990.

ノダ、オトサブロウ・・・野田音三郎(1868-)
 佐賀県出身小城郡南多久村出身。1889年渡米。Japanese American Industrial Corporation の主要メンバー。日本では「霧島山中氷製造所の教師となり偶々農事改良の声旺盛なるを聞きて、九州各地の農業を視察したる後、或る機会に依り時の熊本県知事の慫慂する所となりて渡米に決しぬ、時に明治二十年なり、而して実行せしは二十二年」(「北米之日本人」p158.)であった。
 カリフォルニア州サクラメント近郊でホップ農園の契約労働者をまとめ、フレスノ(Fresno)の農業的可能性に着目するなど初期開拓の功労者。漁業にも手を出し、一時期稲作も試みたようだ。(この人物はいろいろなところに登場するのだが、農業をやったり漁業をやったり、一貫性がないのでいまいちその人生をつかみにくい。チャレンジ精神が旺盛だったようで、パイオニアとして様々な事業を起こしている。まとまった人物史的資料が欲しいのだがまだ見つけられていない)
 モントレーにおける漁業の可能性についての野田の考察は、その後の日系移民史に少なからぬ影響を与えた。1897年、モントレーの海の豊かさに着目した野田は、日本の農商務省に水産専門家の派遣を要請。アワビ漁の有望性を訴えた。これを受けてか、翌年、千葉県でアワビ加工会社を営んでいた小谷源之助が渡米、当地のポイントロボスという湾でアワビ加工会社を設立した。(→訪問記録ポイントロボス参照)
 在米日本人会の役員、殖産会社の総支配人などを歴任。大和コロニーの支配人をも務める。
 以下「在米日本人史観」付録p32より抜粋; “在米日本人漁業家の元祖は佐賀県人野田音三郎である。彼は明治三十年(1897年)サリナス附近のビーツ耕作に失敗したる後モントリー附近山林の開壁を請負ひ、一日モントレー湾に小船を浮べ日本流の「はへ船」を以て漁獲を試みたところ忽ち数百斥の雑魚を得たので大いに漁味を覚え漁業に手をそむるに至つた。”
 参考文献:The Issei、「在米日本人史観」、「在米日本人史」、「北米之日本人」





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