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ハニハラ、マサナオ・・・埴原正直(1876-1934) 1898年、外交官試験に合格、日本で最初の外交専門誌「外交時報」を創刊。翌年領事館補となり、アモイ領事館に赴任。1902年、駐米日本大使館の外務書記官補となりワシントンに赴任。5年後二等書記官となる。小柄なため、アメリカ人に「リトル・ハニー」と呼ばれたりしたこともあったとか。 米国内の対日感情が高まりつつあった1909年、埴原はコロラド、ワイオミング、ユタ、アイダホ、ワシントン、オレゴン、カリフォルニア、テキサスの8州をまわって日本人居留地を視察する。目的は、全米各地に点在する日本町などの実態調査であり、それが排日論者たちの目にどう映っているのかを探るものであった。その取材方法は案外徹底的だったという。自らの足で日本人町を歩き、時には変装までして売春宿に潜入して見たまま感じたままを綴るのだ。埴原はこの二ヶ月以上にわたる調査の結果を後日「埴原報告」と呼ばれるレポートにまとめ、外務大臣小村寿太郎宛に送った。これを読んだ外務省は青くなったらしい。埴原のレポートは歯に衣着せぬもので、各地の日本人町の不衛生さ、下賤さ、卑猥さを赤裸々に綴っていた。いやしくも日本政府の公文書である。これがもしアメリカのジャーナリズムなどの目に触れたら、排日論者に格好の攻撃材料を与え、ひいては日本人全体の品位を下げるばかりか外交問題にまで発展するかもしれない。外務省はこの「埴原報告」を機密文書扱いにして封印した。 思うに、この若い書記官は(「報告」の当時33歳)心から日本国と在米日本人の行く末を案じていたのだろう。彼の素直さ、率直さはしかし、その後の日米外交史に大きな影響を与えることとなる。1924年、米国議会で日本人移民の制限の問題が取り沙汰されていた時期。順調な出世を重ねて駐米大使となっていた埴原のもとに、米国国務長官ヒューズ(Hughes)から口頭で「日米紳士協約について、明確に説明して欲しい」との要請が寄せられる。言われたとおり埴原が書き送ったレターが、大問題となった。そこにあった「もし日本人移民を排除するような法案が通過してしまったら、日米外交に重大な結果がもたらされる」という意味の記述。この「重大な結果」という言葉を、排日論側の上院議員たちは「脅迫」ととらえたのである。埴原はあわてた。そんな意図ではなかった、と弁明した。しかし、大騒ぎとなってしまった議会は耳を貸さず、俗に排日移民法といわれる移民法修正案は圧倒的多数の賛成を得て可決。日本人のアメリカ移住の道は完全に閉ざされた。同1924年、埴原大使は一連の責任を背負って日本に帰国。失意の中で1927年に退官し、その7年後に58歳の若さで亡くなった。 参考文献: 「明治海外ニッポン人」、The Bamboo People、The Politics of Prejudice |
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ババ、コザブロウ・・・馬場小三郎(1856-1946) 元細川藩士。西南戦争に敗れたのち1887年渡米。農業労働者請負人の元祖とされる。キリスト教信者。「実業界」を組織。「遠征社」設立。新聞を発行。 「1888(明治21)年春、サンフランシスコからウィンタースに向かう壮年がいた。熊本県人で、馬場小三郎という。彼は身長五尺八寸、体力優れ元気旺盛、一日一斗の鮭を傾けても酔態を現さず、音声さわやか、一たび意を決するときは水火に入りて自若たり。五月にウィンタース村に至り、ジョージ・セッセルが経営する果樹園を訪問して、果物摘取作業に日本人数名を供給する契約をした。これがカリフォルニアにおける日本人果物摘取労働者の最初である」(鷲津尺魔「我輩の米国生活」:「カリフォルニア移民物語」から孫引き) 馬場は4人の仲間を率いてウィンタースおよびヴァカビル(Vacaville)の農園に労働者を供給。それまではその辺りの農園労働者は中国人が主であったが、日本人は「勤勉にして、陰日向なく忠質に働くのみならず、支那人よりも農園労働に於て、勝れた手腕を有」したため、喜んだ農園経営者たちは競って日本人労働者を受け入れるようになったという(「在米日本人史」p40.)その後の日本人労働者の奔放ぶりを見ると「本当か?」と疑いたくもなる記述だが、当初はたしかに勤勉であったのかもしれない。 1903年、馬場はカリフォルニア州オクスナード(Oxnard)で製糖会社に労働者を供給する仕事を請け負っていた。Western Agricultural Contracting Companyというこの請負会社は社長にアメリカ人ハーツを据え、日本人ボスは馬場のほかに猪瀬伊之助、寺沢六之助などがいた。同年3月、リクルーターの猪瀬が新たに集めた労働者120人に対して労働時間の延長と賃下げを申し入れ、契約違反の非に問われるという事件が起こる。馬場は猪瀬と袂を分かち、日本人500人とメキシコ人200人からなる日墨労働同盟協会(Japanese-Mexican Labor Association)を組織してストライキを決行。これが、在米日本人最初の労働運動、オクスナード争議(Oxnard Strike)と呼ばれる労働争議である。 猪瀬も組合を組織してこれに対抗、双方のにらみ合いとなる。あるとき激しい問答の末ピストルの撃ち合いがはじまり、メキシコ人1名が死亡、メキシコ人と日本人それぞれ2名が負傷するという事件に発展。Western Agricultural Contracting Companyは崩壊し、社長のハーツと猪瀬は残った労働者を連れてユタ州に向かった。 参考文献:The Issei、「カリフォルニア移民物語」、Strangers fromほか |
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ハラダ、ジュウキチ・・・原田重吉(要調査) |
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ハマダ、ヒコゾウ・・・浜田彦蔵(1837-1897) →浜田彦蔵参照 |
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ハリス、トマス・レーク・・・Thomas Lake Harris(1823-1845) |
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ヒラサキ、キヨシ・・・(1900-1963) 1914年、14歳のとき父に呼び寄せられて渡米。カリフォルニア州ミルピタスで数年間学校に通った後、農場で働く。キヨシという名前を覚えられない同僚たちは彼に「ジミー」(Jimmy)というアメリカン・ネームをつけた。のちの「ガーリック・キング」、ジミー・ヒラサキの誕生である。 ジミーは1921年にいったん帰国して幼馴染のハルエと結婚。ふたたび戻って新居をミルピタスから20マイルほど南に下った町、ギルロイに構えた(土地を買ったとされているが、外国人土地法には抵触しなかったのだろうか??)。 ギルロイの町は“Garlic Capital of the World”と称されるほどに、ガーリックの生産で有名な土地である。その名声はもちろん現在も健在だ。ハイウェイ101でギルロイの町を通りすぎるとほのかなニンニクの香りがするといわれている(何度か通ったことがあるけれど、たしかに臭い)。ジミーはこの地でガーリック農場の経営に乗り出した。ガーリック農業は彼にとってまったく初めての試みであり、最初は見よう見まねであった。しかし彼は着々と成功を重ね、1941年にはカリフォルニア州で最大のガーリック生産者となるに至る。 1938年にサンフランシスコのトレジャー・アイランドで万国博覧会が催された。そこで日本の木材等を入手したジミーは、数人の日本人大工の協力を得て農場の中に日本式家屋を建設する。ジミーとその家族は1941年にこの新築の日本家屋に入居した。これまでの努力、異国の土地で自分たちが勝ち得た栄光を象徴する立派な屋敷の中で、彼らはどんなに誇らしかったことだろう。しかしその幸せな新生活は2ヶ月しか続かなかった。1941年12月、日本軍による真珠湾攻撃。一夜にして在米日本人たちは敵国外国人となった。ジミーは日系一世の中でも経済的成功者であったため、スパイの嫌疑をかけられてノース・ダコタ州フォート・リンカーンの収容所に送られる。家族はギルロイに新居を残したまま、心ある白人の友人のつてでコロラド州デンバーの近くに家を購入、日系人の移動制限ぎりぎりの日にそこへ移り住んで辛くも強制収容を免れた。 終戦後、出所したジミーはギルロイの自宅に戻り、戦時中に荒れ果ててしまった家屋や農場の修復に努めた。彼の家は、財産を失って帰る場所のない収容所帰りの日系人たちであふれていた。ジミーは農場の一部を彼らに貸し与え、同胞たちが今後の人生設計の見通しをつける手助けをしたという。息子の学(当初マナブと読んでいたが、いつのまにかマナビと誤読されそれが定着した)は442部隊に入隊してイタリア戦線へ赴き、日系アメリカ人として国に忠誠を示した。 1948年、ジミーは数人の日系人仲間とともに日本語新聞「北米毎日」を創立し、初代社長を務めた。このように、彼が日系コミュニティーをいとおしく思う気持ちは、彼の行動のそこここに表れている。戦前、人々の交流の場であった日系コミュニティー・ホールの建物は日系人の強制収容に際して州に没収され、後にはグレーンジ(Grange; 白人の農業共済組合。戦後、日系人が収容所から戻ってくるのに反対し差別運動を繰り広げた)が入っていた。このコミュニティー・ホールを復活させるために、ジミーは例の日本家屋を提供し、自分は納屋の近くの小さな家に移り住んだ。この日本家屋は現在カリフォルニア州の史跡(ヒストリック・サイト)として登録されている。 参考文献:Japanese American Journey、A Taste for Strawberries |
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ヒラバヤシ、ゴードン・・・Gordon Hirabayashi () 二世。第二次世界大戦時、強制収容命令に従うことを拒み、米合衆国に挑戦した二人目の日系人。(一人目はミノル・ヤスイ。) 真珠湾攻撃が起こったとき、ヒラバヤシはワシントン大学に在籍する24歳の学生だった。1942年5月16日、彼に強制収容の命令が下される。熱心なキリスト教徒でもあったヒラバヤシは、この強制収容を「人間の尊厳を侵し、生きる権利を否定するものだ」として糾弾し、「この国が培う民主主義の規範を維持していくことが私の義務だと考える(I consider it my duty to maintain the democratic standards for which this nation lives)」として命令服従を拒否する書状をFBIに提出した。しかし、FBIは彼を投獄。4日後、「収容所に行くなら5千ドルの保釈金は見逃してやる」と言われるが、ヒラバヤシは信念にもとづいて刑務所生活を選んだ。 10月20日になってようやく、裁判がとりおこなわれた。公聴の後、陪審員の判決が出たのはわずか10分後。有罪であった。 ヒラバヤシはこれを不服とし、1943年6月21日、ミノル・ヤスイとフレッド・コレマツとともに上訴した。しかし結果は陪審員全員一致の有罪。ヒラバヤシたちは投獄された。 参考文献: Japanese Americans(Kitano) |
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ヒラマツ、タケベエ・・・平松武兵衛 →シュネル、ジョン・ヘンリー |
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フミクラ、ヘイジロウ・・・文倉平次郎(要詳細調査) 東京出身。福音会書記。1898年、サンフランシスコで客死した3人の咸臨丸水夫の墓が赤羽根忠右衛門によって2つまで発見された。残るひとり、源之助の墓を努力の末見つけ出したのが文倉だった。これをきっかけに彼は咸臨丸の研究に没頭し、名著「幕末軍艦咸臨丸」を著す。平次郎は「平二郎」とも書かれるときがあり、また「平三郎」と称していたこともある。 |
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ブルックス、チャールズ・W・・・Charles Wolcott Brooks () ボストン出身、日本大好きのアメリカ人貿易商。咸臨丸がサンフランシスコを訪問した際には案内役などを務めた。3人の水夫の亡骸を葬り、峯吉の碑文を書いたのは彼である。この人はあまりに日本を愛するがあまり、サンフランシスコ領事を自ら称し、在桑日本人社会の庇護者役を買って出たと言われる(司馬遼太郎「アメリカ素描」)。その一方的な情熱が認められ、1867年徳川幕府より本当にサンフランシスコ領事として任ぜられた。さらに維新後、明治政府からもめでたく領事に任命される。なかなか変った愛すべきアメリカ人である。 |
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ホカゾノ、ナオイチ・・・外園直一(1873-1923) 大分県宇佐郡四日市町出身。別名直吉。1894年渡米、コロラド州に入る。1898年にデンバーで始めたレストランは思ったような成果を上げなかったため、1904年ごろから鉄道に日本人労働者を供給する請負事業を始めた。「ツリニダッド市水道工事」、「トランス・ミッション電塔建築」、「ボールダア水力電気工事」などを請け負って成功をおさめ、大きな利を得る(「在米日本人史観」)。彼が供給した日本人労働者はものすごい数にのぼり、常時500人以上を引率していたようだ。このようにコロラドおよびワイオミングにおける日本人成功者として名高い外園であるが、彼はあくまで管理者であった。難しい仕事を請け負って人夫を酷使したため、その栄光のかげには多くの日本人労働者が犠牲にされた、という説もある(「在米日本人労働者の歴史」p61)。ダイナマイトを使用する工事において爆発事故があり、多数の日本人労働者がそれによって爆死したこともあったらしい。 外園は後に「Japanese Business Men’s Association」(コロラド州日本人協議会のことか)の会長となり、1908年にコロラド州最初の日本語新聞「伝馬(デンバー)新報」を刊行。また1916年には地元仏教会の創設にも関わった。 参考文献:「在米日本人史観」、「在米日本人労働者の歴史」ほか →全米各地の日系人「コロラド州」参照 |