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19世紀末、サンフランシスコ。この地で徐々に大きくなりつつあった日系移民社会は、異国の地に夢を馳せる青年たちの活気に満ちていた。同時に高まる排日の気運の中で、彼らをまとめ、在米日本人全体の地位を向上させようとする若きリーダーたちが現れる。 |
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日系新聞「日米」 安孫子は真面目な性格であった。在米日本人の立場について真剣に考えた。カリフォルニアのアジア人差別は厳しく、日本から続々とやってくる「アメリカ初心者」たちの無知ゆえのマナーの悪さが、排日感情をいっそうあおっていることに彼は気付いていた。 1899年、親友鷲津尺魔から「ジャパン・ヘラルド」という小さな新聞社を買い取った安孫子は、タイトルを「桑港日本新聞」(桑港はサンフランシスコの和名)と改めて鷲津ら4人の仲間とともに日刊新聞の発行を始める。新聞を通して、日本語で、同胞諸君に呼びかけようと考えたのだ。この新聞はのちに「北米日報」と併合、「日米」というタイトルを得て、日系移民の啓蒙新聞として大きく成長していく。 「日米勧業社」設立 1900年以降、それまで書生中心であったアメリカの日本人社会はがらりとその様相を変えた。米国国勢調査(U.S. Census)によれば、1890年には2039人であった在米日本人の数が、1900年には2万4千人以上にはね上がっている。(*2)そのうちの1万人は実に、1900年の1年間に出稼ぎ労働者として渡米したのである。いわば小さな村が突然都会と化したかのようなこの労働者大流入は、それまでの日本人コミュニティーの細々とした家内的つながりがもはや用を成さないことを明示していた。 まず、福音会などの青年グループが善意にもとづいて行っていた職の斡旋。書生にはスクールボーイの口をあてがえばそれでよかったが、労働者階級が求めているのは即日金になる日雇い労働などの仕事である。彼らを束ね、白人の農場経営者などと交渉し、人材供給を請け負う日本人ボスが必要であった。 さらに、彼ら出稼ぎ労働者たちは書生とは考え方からして違う。アメリカでひと財産をつくって日本に帰ろう、ここは仮の住まいであって恥は掻き捨てられる、そんな気持ちでやってきた人々は、農園や鉄道などでうさばらしの賭博に興じる悪習を流行させた。ギャンブルにふけっても、仕事をきっちりやりさえすれば文句はない。しかしそこは博打の魔力。連夜の賭博にのめり込む彼らは昼間の労働に身が入らず、正確な作業と効率のよさが売りのはずの日本人労働者の評判は悪化の一途をたどった。 これではいけない。安孫子をはじめとする日系移民の早期メンバーたちは心を痛めた。我々が立ち上がって、有能でクリーンな日本人労働者のイメージを取り戻さなければ、日系移民全体の立場が悪くなってしまう。1902年10月、安孫子を中心とした同志10人が集まって「日本人勧業社」なる人材供給会社を立ち上げた。労働者たちをまとめ、賭博を禁止することに努めたこの会社はまたたく間に成功を収め、1904年に株式会社に発展し「日米勧業社」と改名。カリフォルニアのみならず、ユタ州の農園(*2)やネバダ、オレゴン州の鉄道など、アメリカ西部各地に日本人特有の手際のよい労働力を提供した。 |
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土着永住論 安孫子の「日米」新聞と日米勧業社は、いわば1台の自動車の2つの前輪のようなものである。「日米」紙上で彼は日本人としての精神論を説き、日米勧業社はそれを実行に移すべく人々を先導した。日系移民の生活を向上させるために、安孫子とその同志らが掲げた最も大きな主張。それは土着永住論であった。 当時、排日論者の日本人攻撃論法のひとつに次のようなものがあった。 「日本人はアメリカという土地に融合しようとしない。イナゴのようにやってきて、アメリカ人の雇用機会をかすめとり、小金を稼いでは本国に送金し、やがて去っていく」。 確かに、当時の移民たちはアメリカに定住しなかった。永住の覚悟がなければ、自分たちのステイタスを高めようという努力も生まれない。安孫子は「日米」紙上において永住のススメを説いた。妻を娶り家族をつくれ。土地を所有し家を建てよ。この国に骨を埋める気概を持って、日々の仕事に気合を入れよ。「日米」はさらに写真結婚の具体的な方法まで懇切丁寧に教え、日米勧業社は購入可能な土地を斡旋した。 こうして日本人の自営農家は着実に増え、労働に対する意欲や責任感の芽生えは移民たちの態度を変化させていった。それはとりもなおさず、アメリカ人の目に映る日系移民のイメージを変えていったことに他ならない。 1906年、安孫子はこのポリシーをそっくりそのまま現実化することを試みる。日本人の殖民地、「大和コロニー」の建設である。土着永住の覚悟をもった者が集まり、アメリカ人とのおだやかな協調を目指すこのユートピアは、“移民の指導者”安孫子の理想郷であった。1908年、43歳の安孫子はようやく自説を実行して妻帯する。妻は余奈子、津田梅子の妹である。こうして現実のものとなった彼の理念は、しかし、苦難の連続だった。好調を見せていた「日米」新聞の利益を彼は、ほとんどこの大和コロニーにつぎ込んでしまったという。(*4) 1936年5月31日、サンフランシスコのカリフォルニア大学病院にて、この人望高き日系リーダーは惜しまれながらその生涯の幕を閉じる。「日米」の経営は余奈子夫人に引き継がれた。 |
註: (*1)白人の家に住み込んで働きながら学校に行かせてもらうというシステム。当時の渡米者はアメリカで何かを学ぼうとするいわゆる書生がほとんどで、多くは小学校から始めて英語を学んでいった。安孫子も20歳のとき小学生に混じって通学し、からかわれながら英語をマスターしたようだ。 (*2)Ichihachi, Japanese Immigration, Its Status in California. p7. (*3)ユタ州への殖民は「日米」および日米勧業社の大いに勧めるところであった。1903年、オグデンのユタ製糖会社から大型人材供給の依頼を受けた日米勧業社(このころはまだ日本人勧業社)は、50人の農園労働者を送り込んだ。作業内容は砂糖大根(beets)の栽培である。デリケートで栽培の難しい砂糖大根は当時需要が高く、日本人農業者の得意とする品種であった。ユタの厳しい自然環境の中、懸命に働いた労働者たちの努力は実り、アメリカ人農場経営者との強い信頼関係が生まれたという。(→全米各地の日系人「ユタ州」参照) (*4)「日米」の文選工であった佐藤利一(果樹園労働者の父の呼び寄せで1898年渡米)は、のちにインタヴューに答えてこう語った。 「サンフランシスコの日米新聞社にいたときの社長は安孫子さんでしたが、あの人は新聞で儲けた金のほとんどをマルセリッド郡リビングストンの大和コロニーにつぎこんでいました。だから、コロニーを成功させるには新聞社の経営を合理的にしなければなりませんでした。部数は一万六千ぐらいでしたか、社長の月給は500ドルでしたね。ひじょうに細かい人でそれがコロニーを成功させたと思いますよ」(米国日語協会一世史編集委員会編「一世史」p95) また、安孫子の人柄について、 「社長の安孫子さんは世のため人のためには土、日も休んではいけないという主義の持ち主でしたから正月三箇日を休むだけでした。・・・」(p90) 参考文献:
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