若者たちの抵抗
しかし、すべての日系人が無抵抗だったというわけではない。強制収容命令への服従を拒否し、訴訟を起こすという勇気ある試みがいくつかなされた。(*5)いずれも敗訴に終り有罪の判決を受けるという結果に終わったが、彼らはこうした穏健なやり方で個々に問題を提起したのである。
また、マイク・マサオカを中心とした二世リーダーたちの運動も注目に値する。日系人全員を追放するなどという暴挙をなんとかして阻止しなければならないと考えた若者たちは、苦肉の策に出た。一世の親たちは日本人なのだから収容もやむをえない。彼らを人質として差し出し、その代わりに息子たちは「二世だけの部隊」を結成して戦場に赴き、敵国日本と戦う――。こんな決死の建白書を、二世たちは陸軍省に提出したのである。アメリカへの忠誠心を懸命にあらわそうとした彼らの、あまりにもまっすぐな決意だった。それに対する陸軍省の回答は、非情にも「ノー」。強制収容は予定どおり、市民非市民にかかわらず日系人すべてに対して行われた。しかし、このマサオカの「二世だけの部隊」案は、強制収容が完遂された後にあらためて検討され、やがて結成される442部隊・100部隊のもととなっていくのである。
註:
(*1)Executive Order 9066。@軍司令部が住民を強制退去させることができるエリアを指定し、Aその人々を収容する場所として、一時転住所(Relocation Center)を認可する、というのがその内容。 Kitano, Japanese Americans. p72.
(*2)Japanese Americans. p72.
(*3)日本人への無理解・誤解がはびこっていた反面、興味深い事実もある。Weglyn, Years of Infamy によると(pp33〜53)、日米戦争の始まる直前に、政府は日系人の忠誠心に関する調査を行った。その報告書は真珠湾攻撃とともに封印され終戦まで機密文書扱いになっていたというのである。カーティス・B・マンソン(Curtis B. Munson)によるこの調査は、1941年10月から11月前半にかけて行われたもので、25ページの詳細なレポートにまとめられている。日本特有の「義理」という観念や、帰米二世の文化適合的苦悩など、在米日系人の心情がかなり深く理解された内容であり、彼らの多くが日本ではなくアメリカに忠誠心を抱いているという結果が示されていた。
また、Daniels, The Decision to Relocate the Japanese Americans, pp9〜10 によれば、この報告書がスパイ疑惑あり(suspects)と考える日系人の数は西海岸の各海軍地域においてそれぞれ250〜300、そのうち脅威とされるのは40〜50足らず。しかし、真珠湾攻撃後のFBIのリストではこの数が1500にも膨れ上がっていた。つまり、民間レベルでは仕方がないとしても少なくとも米政府においては、日系人に対する客観的な分析はすでになされていたのである。
(*4)”A Jap is a Jap.” John L. Dewitt の有名な言葉。当時流行語にもなった。ちなみに、このセリフはこう続く。"it makes no difference whether he is an American Citizen or not...I don't want them...They are dangerous element."
(*5)ゴードン・ヒラバヤシ、ミノル・ヤスイ、フレッド・コレマツら二世たちの訴訟。戦後になって称えられた彼らの勇敢かつ信義ある行動はしかし、当時の日系社会に受け入れられていたとは言いがたい。命令に従って収容された日系人の多くは、「お上の仰せに従うことが忠誠心だ」といった日本人的な考え方を持っており、正面からあくまで権利を主張しようとするこれら少数の若者たちが他の収容者たちに及ぼす影響を懸念する声もあった。
参考文献:
- Daniels, Roger. The Decision to Relocate the Japanese Americans. New York; J. B. Lippincott Company. 1975.
- Kitano, Harry H.L. Japanese Americans: The Evolution of a Subculture. New Jersey; Prentice Hall Inc. 1969.
- Weglyn, Michi. Years of Infamy: The Untold Story of America’s Concentration Camps. New York; William Morrow and Company, Inc., 1976.
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