大統領令9066号
Executive Order 9066



――そのとき、缶詰工場から人が走り出てきて、何かを叫びながら波止場へと駆けていった。・・・日本が、真珠湾を爆撃した、と。
「あの人、何を言ってるの?」チヅがママに訊ねた。
「パール・ハーバーってなあに?」
 ママは彼に叫び返した、「パール・ハーバーって何なんです?」

――(Wakatsuki, Farewell to Manzanar. p6 より)



 1941年12月。日米関係は煮詰まっていた。いつ戦闘が始まってもおかしくない、というぴりぴりとした気分がアメリカの各都市を覆っていた。そこに舞い込んだのが、日本がハワイの真珠湾を爆撃したというニュース。日本とアメリカは本格的に戦争状態に入る。

 12月7日。この日こそが、在米日系人にとって、これまで以上に辛く厳しい戦いの始まりだった。

 1942年1月29日、連邦法務長官令により太平洋沿岸一帯が保安地域に指定され、すべての敵国人はこの地域からの移動を命じられる。2月19日、西海岸諸州の議会からの要請にこたえる形で、大統領フランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)は、西海岸に住む日系人を「一時転居」させるという政令にサインした。大統領令9066号である。(*1)

日系人に向けられた憎悪
 なぜ、私たちが立ち退かなければならないのか。立ち退いて、どこへ連れて行かれるのか・・・。地道な商売や農業労働にいそしんでいた日系人たちには、当初、事態がよくわからなかったのかもしれない。わかっていたのは、日本がアメリカを攻撃したという事実。そして、それが「卑怯な奇襲」で、アメリカの世論が一気に極端な反日へと転がって行ったこと。

 日系人に注がれる視線にはあからさまな憎悪があった。ハワイのアメリカ国民を大量殺戮した日本軍への恐怖と憎しみが、そのまま在米日系人へと向けられた。大人しいジャパニーズの洗濯屋、温厚な庭師、寡黙な漁師たち・・・、彼らはみな、実は日本軍に通じる工作員であり、チャンスを狙ってアメリカ本土に総攻撃をかけるつもりなのだ、という噂が巷では真剣に信じられていた。父が、叔父が、スパイ嫌疑をかけられてFBIに連行されていく。日系社会は揺れた。


 ルーツを日本に持つといえども、もはやこの国の土となることを決めたアメリカ移民である、あるいはこの国で生まれたアメリカ市民なのだ――といった日系人の主張を、まともに聞いてくれる者は少なかった。それまでにもずっと日系人をよく思っていなかった人々にとって、この背徳的な真珠湾奇襲は日本人の卑怯さ、下劣さを立証する格好の材料となったのである。

 1942年3月2日、デウィット将軍(General John L. DeWitt)は、日本人の血が8分の1以上入っている人々に対して、太平洋沿岸各州の西半分とアリゾナ州の南から立ち退くよう命じた。8分の1というと、曽祖父の代に1人でも日本人がいればこれにひっかかるわけだ。在米日系人約126,000人のうち110,000人以上がこの命令の対象となったとされる。そしてこのうち3分の2は、アメリカで生まれ、市民権を持つ二世であった。(*2)


*日系人関連史跡訪問記録*

 ターミナル・アイランド

大統領令9066号
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強制収容はなぜ起きたのか
 11万人もの日系人を隔離するとなると、現実的な作業量は並大抵のものではない。検査や先導のための人員も必要だし、収容施設の建設、監視・運営などにも莫大な費用がかかる。にもかかわらず、なぜ政府は日系人の集団隔離に踏み切ったのだろうか。

 いくつかの要因が考えられる。まず挙げられるのは、日本人という民族への無理解である。当時多くののアメリカ人にとって、未だ少数民族のジャパニーズという人々は謎であった。天皇を絶対崇拝し米国征服をたくらむ狂信的集団――というイメージが、政治家に動かされるマスコミを通じて喧伝されたとき、日本人をよく知らず気味悪く思っている人々にすぐさま信じられてしまったのはいわば当然の流れともいえる。(*3)

 このように、日本人全体を「悪い集団」としてとらえる偏見がまず存在した。しかし、いくらなんでも全ての日系人が日本国のスパイであるということは考えにくい。彼らの中に“当然いるであろう”工作員をあぶりだし、捕まえて隔離するということは可能かどうか。この疑問に、政府が出した答えは「不可能」。「よい日本人か悪い日本人かなんて見分けられない」、「ジャップは(どう転んでも)ジャップだ」(*4)――見分けられないのなら、全員ひっくるめて収容してしまえ、というのがアメリカの結論だった。

 こうした偏見の裏には、この国で成功しつつある日系人へのやっかみがあったことも否めない。効率よくしかも安価な労働力を提供して評価を得ている日系人労働者は、仕事のない人々にとっては「職泥棒」であった。また、外国人土地法によって自由な土地所有がままならなかった日系農民たちは、誰も見向きもしないような不毛の土地を進んで切り開き、豊かな農地に変えた。それを見たアメリカ人たちは「日本人ばかりが良い土地を占有している」とねたみ、強制収容によって日本人たちを追い出せばそれらの土地を合法的に乗っ取ることができるとして政府の方針を歓迎したのである。

 こうして決定した強制収容は、おとなしい日系人たちの協力によって驚くほどスムーズに実行された。彼らの多くは通知に従って登録をし、自ら集合場所におもむいて粛々と命令に従ったという。やっとの思いで築きあげてきた財産を、足元を見て買い叩く中国人たちの手に残し、身の回りのものだけを詰めたバッグを手に、日系人たちは列をつくって収容所にむかった。強制収容が円滑に行われた究極の要因は、こうした日系人たちの従順さにあったといえるだろう。

若者たちの抵抗
 しかし、すべての日系人が無抵抗だったというわけではない。強制収容命令への服従を拒否し、訴訟を起こすという勇気ある試みがいくつかなされた。(*5)いずれも敗訴に終り有罪の判決を受けるという結果に終わったが、彼らはこうした穏健なやり方で個々に問題を提起したのである。

 また、マイク・マサオカを中心とした二世リーダーたちの運動も注目に値する。日系人全員を追放するなどという暴挙をなんとかして阻止しなければならないと考えた若者たちは、苦肉の策に出た。一世の親たちは日本人なのだから収容もやむをえない。彼らを人質として差し出し、その代わりに息子たちは「二世だけの部隊」を結成して戦場に赴き、敵国日本と戦う――。こんな決死の建白書を、二世たちは陸軍省に提出したのである。アメリカへの忠誠心を懸命にあらわそうとした彼らの、あまりにもまっすぐな決意だった。それに対する陸軍省の回答は、非情にも「ノー」。強制収容は予定どおり、市民非市民にかかわらず日系人すべてに対して行われた。しかし、このマサオカの「二世だけの部隊」案は、強制収容が完遂された後にあらためて検討され、やがて結成される442部隊・100部隊のもととなっていくのである。


註:
(*1)Executive Order 9066。@軍司令部が住民を強制退去させることができるエリアを指定し、Aその人々を収容する場所として、一時転住所(Relocation Center)を認可する、というのがその内容。 Kitano, Japanese Americans. p72.
(*2)Japanese Americans. p72.
(*3)日本人への無理解・誤解がはびこっていた反面、興味深い事実もある。Weglyn, Years of Infamy によると(pp33〜53)、日米戦争の始まる直前に、政府は日系人の忠誠心に関する調査を行った。その報告書は真珠湾攻撃とともに封印され終戦まで機密文書扱いになっていたというのである。カーティス・B・マンソン(Curtis B. Munson)によるこの調査は、1941年10月から11月前半にかけて行われたもので、25ページの詳細なレポートにまとめられている。日本特有の「義理」という観念や、帰米二世の文化適合的苦悩など、在米日系人の心情がかなり深く理解された内容であり、彼らの多くが日本ではなくアメリカに忠誠心を抱いているという結果が示されていた。
 また、Daniels, The Decision to Relocate the Japanese Americans, pp9〜10 によれば、この報告書がスパイ疑惑あり(suspects)と考える日系人の数は西海岸の各海軍地域においてそれぞれ250〜300、そのうち脅威とされるのは40〜50足らず。しかし、真珠湾攻撃後のFBIのリストではこの数が1500にも膨れ上がっていた。つまり、民間レベルでは仕方がないとしても少なくとも米政府においては、日系人に対する客観的な分析はすでになされていたのである。
(*4)”A Jap is a Jap.” John L. Dewitt の有名な言葉。当時流行語にもなった。ちなみに、このセリフはこう続く。"it makes no difference whether he is an American Citizen or not...I don't want them...They are dangerous element."
(*5)ゴードン・ヒラバヤシミノル・ヤスイフレッド・コレマツら二世たちの訴訟。戦後になって称えられた彼らの勇敢かつ信義ある行動はしかし、当時の日系社会に受け入れられていたとは言いがたい。命令に従って収容された日系人の多くは、「お上の仰せに従うことが忠誠心だ」といった日本人的な考え方を持っており、正面からあくまで権利を主張しようとするこれら少数の若者たちが他の収容者たちに及ぼす影響を懸念する声もあった。


参考文献:

  • Daniels, Roger. The Decision to Relocate the Japanese Americans. New York; J. B. Lippincott Company. 1975.
  • Kitano, Harry H.L. Japanese Americans: The Evolution of a Subculture. New Jersey; Prentice Hall Inc. 1969.
  • Weglyn, Michi. Years of Infamy: The Untold Story of America’s Concentration Camps. New York; William Morrow and Company, Inc., 1976.




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